葉月のまったりブログ

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人間関係について考える ~自己開示編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

「人間関係について考える ~自己開示編~」です。

 

 この記事では前回の記事で便宜的に分類した、4タイプの人間関係について、「自己開示」という観点から考察していきたいと思います。

 

さて、それではまず「自己開示」という言葉の意味について。

心理学の言葉ですが、「自分の思いや考え方(極めてプライベートなもの)を他者に明らかにする」という意味です。

この自己開示度合いについて、人間関係の深さによって層が分かれると思っていまして、深い友人関係や恋愛関係、家族関係は自己開示度合いが高く(一般的には)、浅めの友人関係や、知人関係では自己開示度合いが低いことが多いです。

自分の個人的な体験(恋愛関係なども含まれる?)や、人生歴(生い立ちとか)などを話す相手に対しては自己開示を多くしている、というイメージを持って頂ければいいかと。

 

1. 自己開示の多側面

これは人間関係全般に言えることと思うのですが、多くの時間を過ごせば過ごしただけ、その相手に対して自己開示をする度合いが高いんじゃないのかなと思います。

心理学で「単純接触効果」というものがありますが(あんまり強力なものではないので、これを鵜呑みにしてはいけません)、これは何度も同じ人とエンカウントすると、その人に対して好意を抱くようになるというものです。

それと似ているような気もしますが、多くの時間を過ごす(多くの回数会う)ことによって、自己開示の度合いが高まっていくのではないかと考えています。

(この議論の中において、親密度の上昇≒自己開示という関係性を前提に置いています。これについては次で詳しく見ていきます)

 

この自己開示についてですが、個人的には対人距離に似たものを感じます。

カタカナでパーソナルスペースと呼ばれるものですが、親密になるにつれてその人との距離が縮まっていっても許容されるもので、その距離以上近づくと不快に感じるものです。

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対人距離


(画像元: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9

 

自己開示の情報の度合がパーソナルなものになるにつれて、どんどん内側になっていく。それを開示するのは親しい相手に対してじゃないと行わないというのは、その領域に入っても抵抗感を感じなくなった相手(対人距離が近づいた相手)に対してよりパーソナルな自己開示を行うことと表裏一体なような気がします。

親密度と自己開示の深さが一致しているように感じるヒューリスティックスはこの議論から生まれていると考えてください。

自己開示の解釈として対人距離をモデルに考えることで、心に触れる、踏み入れるといった比喩(物理的行為)が言い得て妙な風に感じることが出来るのではないでしょうか。

 

さて、知人関係、浅い友人関係などの、自己開示をあまり行わない関係について少し考察していきましょう。

この関係性において、自己開示はあまり必要とされないことが多いです。

どちらかというと、そういった相手に対して「そつなく振舞う」ことのほうがよく注目されるような気がします(いわゆるコミュニケーションテクニック的なもの)。

自己開示を行わないので、社会的ステータス(肩書とか資格とか)が自分を示すものとなり、社会問題の一つとされる学歴社会もこれが関係あるんじゃないかと思ったりします。

人が親密になって付き合える人数には限りがあると思っていますので(かなり感覚的議論ですが…)、社会的ステータスで人を判断しないといけない、というよりも、それでしか判断できない場面が往々にして存在します。

自己開示をそこまでしない関係なのに、自己開示をある程度しあう関係の深さまでいかないと知りえない、理解しえないような人間的性質を知ってもらおうとすることは難しいんじゃないかなぁと。

この問題は3. 自己開示の難しさで引き続き議論していきます。

 

次に、深い友人関係や恋愛関係についてです。

深い友人関係や恋愛関係になると、自己開示も多くなると思います。

これは私の持論ですが、深い友人関係では、その関係性の質が多重化していくと思っており、浅い友人関係では「何かをする/受け取る相手」という側面で一側面的であるが、深い友人関係では前述の一側面に加えて「心理的結びつき」が促進され、多側面で友人関係が展開されることが想定されます。

浅い友人関係では一緒に話をする、食事に行く程度の関係性で、それ以上の付き合い(継続的に会うなどの深い友人関係)になると「自分の考えに共感して欲しい」「自分のことをより知って欲しい」という状態があると思います。

恋愛関係については、正直著者の経験値が足らないのであんまり議論が出来ません笑。どのくらい付き合っているかによってまた違いが生まれてそうですが、少なくとも友人関係に比べて、より「心理的結びつき」を求める側面が強いのは確かだと思います。

排他的、依存的ベクトルが加わることも多く、自己開示の「圧力」みたいなものもあるのかな…?

 

最後に家族関係についてです。

何故深い友人関係や恋愛関係と一緒に家族関係を組み込まなかったのか、と思う人もいるでしょうが、家族関係は義務的側面がある程度存在し、友人関係と違い、仲が良くないからと疎遠にすることが簡単に行えない、ということが友人関係などの人間関係から一線を画していると思います。
(個人的見解ですが、恋愛関係と結婚関係の境目もこの義務的、契約的側面にあるんじゃないかと思っています。)

家族という機能自体は、構成員の精神安定の場所提供という意味合いが強く、自己開示という観点からみると、素の自分でいることが出来る(自己を安心して曝すことが出来る)という安心感を与えることが考えられます。

ゼミで機能不全家族について考えたことがあるので、「家族」を一括りに「安定的に自己開示出来る場」と設定するのは無理があると考えますが、家族の機能という観点から考え、その一機能としての構成員の自己開示許容が存在する。と考えると、その家族の機能具合により様相が変わってくる考えられるような気がします。

 

2. ヤマアラシのジレンマ(自己開示したいけど、傷つくのが怖い)

ショーペンハウアーの寓話が元ネタであるこの話。かなり有名みたいなのですが、人間関係の例えとして用いられることも多いです。

ざっくりと説明してしまえば、「お互いに近づきたいと思うけど、近づきすぎると互いに互いを傷つけてしまうから、近づけない / 丁度いい距離を探す」といった関係です。

ジレンマとされる部分は、近づきたいけど、近づくと傷つけるから近づきづらいという箇所ですね。

この力場は恋愛関係によく用いられる印象がありますが、私は自己開示という側面から考えていきたいと思います。

 

自己開示という文脈で言い換えるなら、「自分を知ってほしい(自己開示をしたい)けれど、私を傷つけないで(知れば知るほど、他者が受け入れられない可能性も増えるから)」となるでしょうか。

もちろん、自己開示自体も相手を選んで慎重に行われるものではありますが、自己開示をしてより関係を深めたいという思いと同時に、自己開示をして関係がステップバックする(「引かれる」とかいう言葉が適切でしょうか)のが耐え難いという気持ち、覚えがある人は少なくないと思っています。

 

さて、このジレンマからの反動がいくつかあると思いますので、それについて紹介していきたいと思います。

一つは「八方美人」という在り方です。

誰からも好かれるような性格や人柄を装うというのが八方美人ですが、この名詞自体に否定的文脈が存在しますね。本記事では件のジレンマに対するある種の解決策的側面があると思いますので、むしろ肯定的であることをあらかじめ述べておきます。

この考え方、「嫌われたくないから」という思いから生まれるという風に定義していることが多いように感じますが、先ほど述べたジレンマにあてはめて考えると極めて合理的な一面があることに気づきます。

つまり、「自分を知ってもらいたいけど、傷つきたくない」といいうジレンマが存在することを念頭に置き、そのジレンマの根底にある「自分を知ってほしい」という部分を諦め、別のペルソナを掲げることで、「傷つく」ことも回避しやすくなる、ということです。

もちろん「自分を理解してくれる人なんていない(だからこそ傷つきを回避したい)」といった後ろ向きな八方美人のはじまり方もあるでしょうし、長くそういった状態が続けば「回避行動」といった社会不安の一つの症状となってしまいます。

しかし八方美人をして、その内に「自分を理解してくれる人がいそうだ」という風になっていけば、むしろ最初から自己開示を頻発するよりも適応的な行動となります。

新社員、新入生(クラスとか部活とか)といった新しくコミュニティに入ってくる人の多くが人当りの良い振る舞いをするのは、広い意味で八方美人であると認識することが出来ますので、意識的にせよ無意識的にせよ、行動そのものは想像しやすいんじゃないかなと思います。

 

次に二つ目として、「表面的人間関係」が挙げられます。

表面的⇔深層的と解釈したとして、果たして表面的人間関係とは何なのか、という疑問が浮かんできますが、ここでは自己開示を回避しがちな人間関係という風に定義しておきます。

前述の八方美人もこの人間関係に当てはまるものでありますが、特徴としては、「自分が言いたいこと」、「共有したいこと」を発言することなく、会話の空気や共通的話題に合わせるだけといったことが思い浮かびます。

この人間関係を作ってしまう根本としては先ほども述べた「自分を理解してくれる人なんていない(だからこそ傷つきを回避したい)」という恐怖もあるでしょうし、逆に相手を傷つけてしまうことを恐れるということもあるでしょう。

 下の参考文献(松永&岩本, 2008)から着想を得た部分ですが、

そのような(希薄な)関係を持ちながらも、「もっと本音で付き合いたい」という思いを持っていることを実証的に示したことは、重要な知見であると考える。 

 この「本音で付き合いたい」という部分は「自己開示をもっとしたい」という風に読みかえることも出来ます。

 

上記で取り上げた二つのジレンマの反動的人間関係について、なぜその部分で硬直してしまうのか、言い換えれば、なぜそこから発展しないのかという問題について、次章で見ていきます。

 

3. 自己開示の難しさ

先ほどまでのヤマアラシのジレンマの議論を踏まえて、1. 自己開示の多側面で述べた議論を進めていきます。

「自己開示って簡単に言うけど、そんなに簡単なことじゃない。」と思っている人がいるかもしれません。その通りだと思います。

なので、「なぜ自己開示は難しいのか」ということをこの章で見ていきたいと思います。

 

一言で自己開示の難しさを語るとするなら、

「相手がどの程度の自己開示をこちらに想定しているか分からない」

だと思います。

 

1の議論で述べましたが、関係性の発展具合で自己開示の度合いも変わってくる中で、この関係性の発展具合は「目に見える」ものとして現れにくいです(会う頻度が上がっている、会話の内容に個人的な要素が加わってくる、などの指標が無いわけではありませんが…)。

自分の想定と相手の想定が食い違っていたなら、自己開示の度合いが低くても(なぜ関係性が深いのに本音を見せてくれないのか)、高くても(そんなに本音を言われても…)、あまり好都合に働くことはなさそうですよね。

ヤマアラシのジレンマで恐れた「本音をさらして傷つく」という事態が起こり得るのです。

 

さらに、1の議論の中で述べた自己開示を行わない人間関係の中で、社会的ステータスでしか判定出来ない側面があるのではないかという内容について。

例えば就活などで自分の性格をアピールすることの難しさを感じたことのある人が読者の皆様にもいらっしゃるかもしれません。

就活などの場であれば自己開示を求められるものなので良いかもしれませんが、そういう時に「エピソード」を書くように指導を受けたことがある人が多いんじゃないかなぁと。

エピソードから性格やモチベーションをアピールするのはなぜかという疑問も、自己開示をすることでその人の人となりを開示することが出来、性格やモチベの説明がただの情報として上辺をすべっていかないからかもしれません。

 

ちょっと話が逸れましたね。自己開示をそこまでしない関係なのに、自己開示をある程度しあう関係の深さまでいかないと知りえない、理解しえないような人間的性質を知ってもらおうとすること。

言い換えれば自己開示をしあう関係性を求めることは相手との想定が合わなければ負担のかかる人間関係になります。

逆に自分が自己開示をしなさすぎることも相手にとっては不満が残るものとなります(自分は本音で話しているのに…といった不充足感を与えかねない)。

 

ここで少し趣向を変えて、漫画の一セリフを引用してみたいと思います(「クズの本懐」、7巻より)。

「本当の私」なんてきっとろくでもない。

あなたはきっと嫌いになるよ。

自分だって自分が好きじゃないのに。

その上他者に拒絶されたらどうやって立ち直ればいい?

(中略)

怖いのに

すごくすごく怖いのに

どうして

ひとりじゃ生きられないんだろう

(この漫画は自分の興味にかなり響くものがあったので、また紹介するかもしれません。)

ヤマアラシのジレンマの一例ですが、自己肯定感の低い登場人物のセリフとして、自己開示を回避する趣旨のセリフが前半にあり、この記事の「八方美人」的振る舞いをしていることが見受けられます。

このように、とパターン化してしまうのもあれですが、自己肯定感の低さからくる自己開示を回避する事態も考えられます(それだけではないですが)。

自己開示をして欲しい、相手も自己開示をするだろうという想定が、相手の自己開示模様に当てはまるとは限らないわけです。

ちなみにこの漫画では「扉」という単語を用いて自己開示(心を開く)について描写をしており、閉ざされている、などの表現から自己開示を避ける様子が描かれていました。 

自分だけが自己開示をするので終わらず、相手に対しても自己開示を求めてしまう、求められてしまう、自己開示をして近づきたいけど、自分を否定されるのが怖いというメカニズムが何となく理解頂けたでしょうか。 

 

4. (補題SNS上の自己開示について

人間関係はリアルで顔を合わせる人に限らず、ネット上で出会う人もまた人間関係を築き上げることの出来る対象となりました。

ただSNS上の人間関係は少し複雑そうでいたって単純でもあると思います。

TwitterやInstragramなどのSNSは、匿名っぽく見えます。本質的にはネット上の世界に自分の存在や考え方をアピールしているのに。

「見慣れた他人」よりも「知らない他者」のほうが話しやすいという話もあるくらいですし、大勢の人に向けた自己開示の場が生まれたという意味で、人間関係の模様が変わるきっかけになったのかなぁと思います。

SNSの人間関係については、自己承認欲求や(本質的には違うけど)匿名性について見る際に重要な手がかりとなります。その話題に触れる時にまた書くかもしれません。

 

5. まとめのようなもの&感想

人間関係を自己開示という観点からまとめようと心掛けたつもりですが、まとまっている気がしません笑。

簡単にまとめるなら「自己開示って人間関係の親しさによって重層的に変わっていくよね。でも自己開示って難しい要素があるよね」くらいの内容です。

解決策を何も示していないので全く役に立たないように見えますが、自己開示の度合いが相手とすれ違っているかもしれないという考えを持っておくだけで人間関係の築き方が少し変わってくるんじゃないかと思ったり…。

今の所、このシリーズで書きたいと思う内容がまだありますので、書きあがり次第追加していこうと思っています。参考文献は下記をご覧になってください~。

 

それでは、皆様の良い人間関係生活をお祈りします(^^)ノシ

 

6. 参考文献

松永真由美, & 岩元澄子. (2008). 現代青年の友人関係に関する研究. 久留米大学心理学研究, 7, 77-86.