皆様こんにちは。葉月です。
今回は、Covidの時期にいろいろと書いていた人間関係についての記事と、関連しそうでしない、「自己肯定感」について見ていきます。
人間関係においても重要な要素ですが、生きていく上で大事なファクターになるんじゃないかなぁと思い、ふと自分が思っていることでも書き連ねていこうかと思います。
タイトルの「諦めの自己肯定」ですが、いつしか話題になった「嫌われる勇気」という本に少し登場します。
私自身、初めてこの本を読んだ時に、自分の思考が言葉ではっきりと輪郭をつけられたような気がして、衝撃を受けた記憶があります。
本の内容と似ているかもですが、ご承知おきください。
さて、自己肯定感と一口にいっても、それがどのようなものなのかという議論があまりなされていないような気がするので、「そもそも自己肯定感って何なのか」という部分にまずは着目します。
自分が好き、ナルシズムのような意味でも捉えられる「自己肯定感」ですが、辞書を引くと、「ありのままの自分を受け入れ、尊重する感覚」や「自己の在り方を積極的に評価する感情、自分の価値や存在意義を肯定出来る感情」と定義されています。
自分の存在、自分の価値を承認することが、自己肯定感の大きな軸になっていることが分かりますが、これはどの程度の事象を指しているのか。
0か1なら1でしょうが、自分がこの世で一番価値がある人間だとまで考える必要はないでしょう。単純に、自分がそれなりな価値をもって、この社会に存在している、という認識を持つことでしょうか。
では、議題に掲げている「諦めの」という形容詞は、どういった意味なのか。
これは、何か成し遂げることの出来た自分に対する自己肯定感ではなく、今ここに、何か成し遂げていてもいなくても存在する自分に対して、自己肯定感を持つことです。
「自己肯定感」を手に入れることに難を覚える人は、たくさんいると思います。
特に、自分に対して要求するものが大きい人、プライドの高い人は、自己肯定感を得る、満足することが難しいです。
例え何かを達成したとしても、自分が求めているレベルに達していなければ、何かを成し遂げたとはいえども満足することはないでしょう。
また、環境が苛烈な場合、 自分の(周りと比べた)相対的価値が損じて見えるので、これも自己肯定感を手に入れるのが難しくなります。
それに加えて、昨今はSNSでとても多くの人の脚色された姿を見ることが出来てしまう世の中。
自分が得意だと思っていること、自分が自負しているものを遥かに超えるレベルでこなしている誰かの姿が、見たくないとしても見えてしまいます。
ここでの自己肯定感は、何か成し遂げる、獲得することによって加算されていくステータスのようなものです。
ステータスが1つだけなら、達成感による自己肯定感はなお難しい
ポケモンで例えるなら、こうげきのステータスだけでポケモンの優劣を判断されているようなもの。ぼうぎょやすばやさなど、他に比べられるステータスがないと、達成感を得にくいです(こうげきは低くても、すばやさは高いなど、どこか一側面において自己肯定を出来る要素を抱えることができる)。
さて、ここまでが達成的自己肯定感の話でしたが、諦めの自己肯定感と比較してみます。
1. 達成的自己肯定感:何かを成し遂げることが出来たから自分に価値がある -> 自己肯定
2. 諦めの自己肯定感:今自分は十分にプラスな状態である -> 自己肯定
理想から引き算をして現実を捉えるか、最低限から足し算をして現実を捉えるか、という枠組みでも説明が出来ますが、もし達成的肯定感を得ようとするのなら、何かを成し遂げて自分の価値を付加しないと難しい。
そういった時に、自分は「こうなれたからいい人間だ」という、達成的自己肯定感を得ようとするのではなく、「こうとしかなれない/自分はこのくらいだ」という捉え方をするのが、「諦め」の指す内容となります。
「諦め」という単語を用いると、ネガティブな意味合いに聞こえてしまいますが、指し示したい意味としては「足るを知る」といったものに近いです。
自分に何か大きな成長を望むのも素晴らしいと思います。そうした果てに何か成功を掴むことが出来たなら、自己肯定感が増すのに障害は無いでしょう。
しかしながら、それで自己肯定感を得ることが難しい人がいるのもまた事実です。
そういった時に、自分はこれくらいしか出来ない、という悲観的な考え方で自分を責めるのではなく、「これくらいしか出来ないんだから、これは自分の肯定感に加えるにふさわしくないんだ」と考えること。
自分が出来ること、好きなこと、やっていて楽しいことなどを自分の価値にしてみるのがいいんでしょうかね。
出来ないことはあって当然。それを自分の価値に組み込まないようにすれば、自分の弱点に捕らわれることがなくなると思います。
加えて、他人を見下さないことも重要だと思います。
セルフハンディキャップの話としても有名ですが、人が自尊心を保つとして、自分よりも優れている(と思っている)人を見て、追いついていきたいと思うか、自分よりも劣っている人を見て、コイツよりはマシと思うか、という2択があります。
下を見て自尊心を保ってしまうと、その人の優れた一面を見つけてしまった時に、その自尊心が揺らいでしまい、自尊心の在処が他者依存になってしまいます。
勿論、下を見て自尊心を保つといった行為が必要になる場合もあるでしょうが、優れた人を見つけ、追いつこうとする方が、自分が自尊心を高める材料になります。
それで上手くいかないと思ったら、「諦め」ればいいと思っています。
これくらいしか出来ないんだから、自分にはふさわしくないのだと。
しかしながら社会においては、学歴、仕事のデキなど、場所によっては支配的な価値を担うことが往々にしてある、特別な価値が存在します。
これを「諦め」るのは難しいことですし、自分にふさわしいもの、はそんな簡単に見つかるものではないと思いますが、ふさわしくないと切り捨てていく中で、残っているものをそう解釈するのがいいでしょうか。
その人自身の中で、自己肯定感を高める価値を見つけられるのがいいなぁ、なんて思ったりします。
まとめのようなもの
ここまで書いておいて、具体的にじゃあ自己肯定感をどう高めるのか、についての方策がないと思った人もいるでしょう。
私自身も、どうすれば自己肯定感を高められるのかずっと悩んでいて、元々この文章の骨組み自体は2020年にあらかた作っておいたのですが、どうにも自己啓発系心理学の本のうさんくささが拭えず、そんな文章を公開するのはなんだかなぁと思っていました。
ただ、ベルギー、カナダと留学をする中で、自分に自信がない人、あるように見える人、なんでそんなので自信があるのか分からない人(失礼)に会ってきて、自己肯定感の多寡によってその人のプレゼンスに大きな影響をもたらしている感覚を得ました。
単純にいうと、自信がある人って存在感というか「俺はここで生きてるぞ」っていう主張が強いんですよね。
だからこそ、自信がある/ない -> プレゼンスが強い/弱い -> その人「らしさ」が見える/見えない、という正/負のループが生まれているように感じました。
みんながみんな、強く生きれる訳じゃない。でも自信を持っておくことで、少なくとも自分という人間のプレゼンスを出すことができる。
常に理想の旗を目指して進める訳じゃないから、たまには後ろを振り返って、自分が進んできた足跡を見つめてみるのもいい。
そういった自分の考えと、自己肯定感の在り様がリンクするような気がしたので、改めて記事にしてみようと考えた次第です。
なのでこうすれば自己肯定が上がる、というより方策よりも、自己肯定ってこういう風にも考えられるんじゃない? くらいの心持ちで書きました。
最近、社会の中でどこか「こうでないといけない」という規範が存在している気がしてます。
例えば、自己責任論や能力主義(メリトクラシー)の持つメッセージであったり(「何かを成し遂げないと、価値を生み出さないと、生きている意味がない」)、もっとライトな人生論だったり(「勉強していい学校に行くべき」「結婚して家庭を持つべき」)。
規範を達成して、達成的自己肯定感を手に入れられるのであれば、それでいい。
でも、それを達成できないで苦しむ人間も存在すると思います。
達成的自己肯定感を手に入れられないことで、自己肯定感を持てずに苦しむのであれば、「諦め」るのも一つの選択肢である、と主張したいです。
まとまっているのか分からないですが、諦めの自己肯定感について書いてみました。
セーフティーネットのようなものとして、持っておいたほうが生きやすいかも、といったくらいの感覚です。これを持たないといけないという規範でもありません。
自分に自信が持てなくて苦しいのであれば、考え方を変えてみるのもいいのかもしれませんね。