葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

だから僕は、塾講の道を辞めた。

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

今回のタイトルはヨルシカの「だから僕は音楽を辞めた」のオマージュです。

前々から、ずっとこの話題については書きたくて温めていた記事になります。なので「辞めた」とかいってもこれを決意したのはかなり昔の話です。

 

今回こうして記事を出すきっかけとなったのが「二月の勝者」というマンガを読んだことでした。

私自身、中学受験経験者で、アルバイトとして塾講師をしている立場上、マンガを読んでいろいろ考えさせられることがありました。

自分語りも少し入りますが、取り合えず「二月の勝者」の感想を述べて、その後に自分の塾講師としての経験も踏まえた自分の考えを述べようと思います。

 

 


まず軽く自己語りですが、自分は中学受験と大学受験をして、一般に「名門」と言われる学校に進んでいったタイプの人間です。

受験の際にゴリゴリに勉強して合格したのか、というと、自分としてはそんなことは全然なく。このマンガを読んだ最初の印象が、こんなに中学受験って苛酷になっているのか、という驚きでした。

合宿とかは経験したことないのですが、塾通いはつらかったかというと、塾に向かうバスの中で友達と軽く喋ったりして結構楽しかった思い出のほうが強いです。

親がそこまで受験に対して熱心ではなかったので、自分が好きで塾に通わせてもらって受験をした、というのも大きかったのかもしれませんが。

今考えると、親も自分を文化祭に連れて行ってたので私立中学を意識していたのかもしれませんが、実体験としても、漫画を読んだ感想としても、親の意向が強く滲むのが中学受験だなぁという気持ちになります。

 

そういった意向とぶつからなければ気楽なのですが、成績を気にする親を持つと子供にとってもストレスフルでしょう。

実際、中学受験をする子供の割合は年々上がっていますし、同調圧力か分かりませんが、「ならウチの子も…」となり、参加者が増えると同時にヒートアップしていくような印象です。

そして、マンガの一番最初で語られる「君達が合格できたのは、父親の経済力。そして、母親の狂気」

受験を意識して塾に通い始めるのが大体小学校4年生頃でして、確かに3年間通ったらとんでもない金がかかります。

(自分が受験をした時は、5年生からでもいける、みたいな雰囲気がありましたけれどもね…。)

学年によっても違いますけど、一年でざっと100~150万くらいかかりますし、季節講習とか特訓講座等を加えると、6年生はもっと高くなります。

「習い事」であるはずの塾で、これだけお金がかかる。そして、かかるはずなのに、それを出費する層が相当数存在すること。

仮に自分が子供を持つ親だったら…、と考えて読んでみると、寒気がするような気分になりました。

 


感想はこのくらいにして、私が塾講師をやっていて思うことについて書いていきます。

いろんな校舎、クラスで子供たちを見てきて思うことは、勉強をしたいかどうかなんて正直上のクラスだろうが下のクラスだろうが変わらないんじゃないか、ということです。

もっと言うと、別に上位のクラスでも大して勉強をしたそうにはしていないといったところでしょうか。勉強にやる気があって勉強しているわけじゃない。

今の小学生を批判したい訳ではなく、主語がデカイのは承知の上で「学生」がこういう風になってきているんじゃないかと勝手に思っています。

小学生に焦点を当てるなら、「親に言われて」などの外部からの強制力があるからやってるんだろうなぁと。

それではクラスを分けるものは何か。

もちろん表層的な話で言えばテストの点の高い順なのですが、概ね上のクラスでは大人からの指示の聞き分けがいい子が多い印象です。

ここでいう「聞き分けがいい子」は、教師の指示した方法で問題を解くとか、家庭学習を指示通りにやってくるとか、教師の言ったことをそのままトレースして実行出来る子です。

下のクラスになるほど、「自分のやり方のほうが…」とか「そんなの面倒くさい」とか思う子供たちが増えてきます。

私は別にクラスの上下に優劣なんてないと思っていますが、受験勉強をしていく環境の中で、周りの子が教師の言うことを懸命に聞いてメモをしている子たちか、ボーっとしている子たちかでは本人の勉強に対する姿勢は変わります。

私自身も、先生がどうこう言ったから、というより、周りの友達がどのように勉強に取り組んでいるかのほうが影響を受けた自覚がありますし。

これに加えて、教師側はクラスの上下で色眼鏡をかけて授業をするので、下は騒がしくてもまぁいいやとなぁなぁにされがち。

塾全体の雰囲気として、「クラス」を何か人間的序列、価値序列のように見てしまう環境が、そしてそれにある程度馴染んでいる自分を含めた教師が、歪な社会を形成しているような感じすらあります。

 

教師側として思うことは、生徒が20人とか(小学校とかなら35人くらいかな?)に対して全員に刺さる授業をするのはそもそも不可能であることを痛感します。

あまり授業についてこれていない層を支えようとすると上位層の身にならず、退屈してしまう。上位層を支えようとすると下層がついてこれずに退屈してしまうという事態が日常茶飯事。

教師の体は一つしかないので、指示、様子確認、説明、生徒管理をどれもマルチタスクの中でこなさないといけません。

さらに言うなら、勉強にやる気が元々ないのに、内容が難しすぎたら(問題が解ける楽しみがないので)意欲を削ぐのは想像に難くありません。

実際に塾講師をしていて思うのが、簡単な問題を解いている時には不満なく数をこなす子供たちも、難しい問題をじっくり時間をかけて解くといった場面になると、途端に文句を垂れたり別の簡単な問題を進めようとする様子がよく見られます。

ちなみにクラスが真ん中から上くらいになると、上位層をどんどん上のクラスにあげることが教師の求められる働きになるので(受験成績を良くする有望株を早くいいクラスで培養したいのでしょう)、中間から下は捨てられがちになる印象です。

 

それでも塾にやってくる子たちは、子供という母集団の中から相当選ばれた層。

先ほども述べましたが、親が相当の収入を持っていないと子供を塾を2~3年間通わせること、私立に入るのならそこから先の授業料を払うことなんて困難です。

学歴意識(子供を良い学校に入れたいという意識)が高い親が、実際に子供の学歴を高める手段として塾に通わせるには収入が条件になってきます。

塾によっても違いがありますが、基本的に塾は目当ての学校に入れるノウハウを提供するコンサルみたいな仕事で、中学受験においては塾に通わせることがほぼ必須条件になっています。

すると親の収入が高い → 子供の学歴のスタートラインが(早い段階で)進んだものになる → 子供を持つ親となった時に良い収入を得やすい、のように、学歴投資の連鎖とでもいうか、収入面からみた社会層の再生産が階層ごとに起こっているような、そんな気持ちになります。

さらに、中学受験の世話をした子供が大学生になったらバイト講師として採り、それなりな給料で労働力として用いるというシステムが確立されており、自分のような塾講師自体が、階層の再生産を象徴しているような気もします。

ただ、自分は学歴の面ではエリート街道を進んできており、歪だと思いながらも、これを享受しない手はないと思ってしまうのもまた事実で。

受験制度が無くなれば話は違ってくるのだろうけど、(いい幼稚園、小学校)→ いい中学校 、高校 → いい大学 → いい企業(そして収入)はドミノ倒しみたいに受験で繋がれているように感じます。

(就活もある意味では受験と変わらないと思っていて、一定の評価の枠組みや勝ち方(合格のセオリー)や、一括採用(チャンスは一年に一度のセンターと同じような)が存在すると思います)

相関関係でしかありませんが、中学受験という受験での接続と、いい収入を得る(子供を塾に通わせることが出来る)という事象が繋がっているように見えてしまいます。

 

 


そもそも論として塾講師は、全国の小学校の中の(親の収入面という意味においても)選ばれた生徒と、放課後の少しの時間しか生徒と触れ合う機会がありません。

講師の根幹にあるはずの「教育」というものに対して、自分の力の及ばなさとでも言いましょうか、及びようのなさを感じます。

まぁ塾講師にそんなものを求められていないのかもしれませんが。

たかだか一科目を教えているだけの教師でしかないから、自分がそこで教えていることに価値を見出すことが出来ないです。ぶっちゃけ誰でも自分の代わりって出来るわけですし。

もちろん教え方が上手い人は十分に価値があるとは思いますが、多分塾的には大して変わらないのでしょう(そういう人よりはコマの穴を埋めることが出来る、ある程度のクオリティの人材が大量に欲しいのかなぁと)。

企業側から考えても、塾講師の教えるスキルが属人化してしまうと、その人が抜けた際に困ります。なので、普遍的なマニュアルを作って、全員が求められるクオリティの授業を作れることが重要になる。

教材は教えるべき範囲がカッチリ決まっていて、その範囲をこなすだけでタイムオーバーになり、初心者でも出来るように、というか誰でもある程度は出来るように作られているという印象です。

バイトをして小銭をもらう分にはやりやすく、自分たちが得てきた「教育」を次世代に対してそれなりに繋げればいい。授業の形を作ること自体は容易です。

でもこれで子供に関われるとか、未来世代を育成したい、みたいな、自分が教育に対して抱いていたイデアが叶うとは絶対に思いません。というか思えません。

職業として、私が得たかったものは手に入らなかったような気がします。

 

 

バイトという身分で一塾企業の末端で働いて、得られたものがこの業界に対する諦念というのも、ある意味社会勉強なのでしょうか。

働く、という将来の道に対して、選択肢が一つ減ったことを僥倖と捉えるべきなのでしょうか。

社会の一員となって働く。なんて陳腐な言葉が、「自分が取り換えの効く歯車のようになっている」と解釈出来るようになると、仕事に対する見方をきちんとしないとなぁと思う気持ちで一杯です。

考えすぎなのかもしれないし、バイトなんてそんなもんかもしれない。

それでも、社会階層の再生産の一助をしているという感覚に対してはっきりと抵抗感があります。

なんで今でもバイトをしているのか、と聞かれると、小銭稼ぎ以上の答えを見いだせませんし、金を稼ぐ方法が他に身についたら心の底から辞めたいと思っています。

バイトを始める前は、私にも信念があったんでしょうかね。

部屋に干してあるワイシャツは、高校生から同じものを使っているはずなのに、どうにもくたびれたように見えてしまいます。

 

 

 

ここまでお読み頂きありがとうございました。

次の記事は未定ですが、ブログを書く頻度を上げていきたいなぁと思う最近です。