葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

人間関係について考える ~共感編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

人間関係について考えるシリーズ最終弾。今回は「共感」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

傾聴や雑談の記事で少しこの言葉に触れてはいますが、今回は深く掘り下げていきます。

カウンセラーとかがよく用いる「共感」という言葉。

英語では"empathy"ですが、情緒、感情移入といった意味も存在します。

 


共感、という言葉がどういう行為を示しているのか。

漢字として理解しようとすると、「共に感じる」ということになり、一つ大事なポイントがここから生まれます。

共に感じる、というのが共感であって、「あなたが」感じるのではない、ということです。

傾聴の記事で紹介しましたが、相手の話を、相手の意見として理解してあげることが大事だと述べました。

これと同じように、「私があなたを感じる」のではなく(主体を自分だけに置くのではなく)、「(私とあなたで)共に感じる」というのが共感の原義です。

 

なので、日本語でいうなら「同意」ではありません。

相手の意見が受け入れられなくても、それでいいのです。

受け入れられなくても「あなたの意見はこういう風で、このようなロジックで考えているんですね」と知れればそれでokです。

つまり、意見、考え方の論理的理解をした際に、自分の意見を変えて、それを取り入れることではないんです。

相手が、どういった感情と思考で意見を持っているのか、考えを表出しているのか。

「共感」に必要なことは、それを感じることだけです。

 

 

 

1. 共感の方策

今までの記事の総まとめみたいな風に感じるかもしれませんが、「共感」に大事な方策について考えていきたいと思います。

 


まずは、相手のことに興味を持ちましょう。

雑談の記事でも書きましたが、これがないことには、相手の話や感性に対する共感が始まりません。

自分の興味を広げることも一つ手だとは思いますが、相手の話を楽しむことも出来ると思います。

自分が興味がない話題であったとしても、相手が興味を持って語ってくれる話を聞けば、面白いと思える側面を発見出来るかもしれません。

そして、それを聞く際には、仕事や趣味などの、一般的に雑談の話題として認知されている程度のもので十分です。

自分と全く同じ仕事、趣味をしている確率は高くはないでしょうし、もし同じ職業であっても、共通要素から雑談を盛り上げる道具として用いることが出来ます。

自分の知らないことを知っている、体験している、目の前の人に関心を寄せてみましょう。自分と違う意見、観点、体験を「聴いて」みましょう。

共感の要素であり、傾聴、雑談の要素としても大事なものです。

 


次に、自分の思ったことを素直に表出してみましょう。

最初のほうで述べましたが、これは相手の意見に対する同意である必要はありません。

(むしろ、自分の意見を表出することで、相手が「批判された」と感じてしまう場合もありますので、意見を表出することは避けたほうがいいのかも…?)

これに関しましては、人に依る部分が多いのも事実ではありますが。

ここで表出すべきなのは感情です。相槌やちょっとしたジェスチャーがそういった役割を担っていることが多いですね。

嬉しい、悲しい、驚き、感動、興味、不思議、疑念等々…、相手の話を聞いていて、心の中にこういった感情/感覚が生まれることでしょう。

マイナスの感情を表出することが避けるほうがいいですが、そういったものも全部示してみるということです。

マイナスの感情につきましては、表現を変えたり、捉え方を変えて表出してあげれば、自分の思ったことを表現することに繋がると思います。

そこに、自分の考えや意見の解釈を混ぜる必要はなく、ただふと思ったままに示せばいい。

相手もその反応を見て、説明をするかもしれませんし、欲しいと思っていた反応であれば、会話が弾んでいくかもしれません。

 


そして、相手のことを褒めましょう。

お世辞、おべんちゃら、おべっか、などなど、何か便益を図るための褒めに対する否定的な言葉がありますが、褒める、とはそんなものではないです。

何か相手の飛びぬけた才を、惜しげもない美辞麗句で称える、だけが褒めることではありません。

イケてる服装を着ていたら、「いいファッションだね」と言ってあげること。作業を手伝ってもらったら、お礼と共に「やさしいね」と言ってみること。

ちょっとしたプラスの部分を見つけて、それを認めてあげること。

こんな程度のことでも、褒められた側は、褒められて嬉しいですし、気分が良くなるものだと思います。

寧ろ、このくらいの誉め言葉の方が、「そんなことないですよ~」と謙遜してしまうレベルにならないので、素直に受け取られやすいかもしれません。

私自身、人を褒めるのがとても苦手で、いつも気に留めていることがあります。

それは、「人と違う点」「最近変わった点」「こだわっている風な点」を探すことです。

 

周りの人と比べて、何か違うファッションであったり、風格、感性、意見を持っていることは、その人独自の特別なものかもしれません。

相手に興味を持てるようになる第一歩だと思いますので、そこを褒めながら、相手のことを知っていくのもアリでしょう。

または、髪型、髪の色、靴、アクセサリーなんかは、変わったことを指摘されて嬉しくなった経験を持っている人もいるのではないでしょうか。

私自身、時計を変えた時にそれを友人に指摘されたことがあり、「こんな所まで見ているのか」と驚いた経験があります。

相手のことを日頃からよく見ていないと変化に気づけないものですので(注意して物を見ないと認識の俎上に上がらないことは、認知心理学とかで示されていた気がします)、それを指摘して褒められることが出来るなら素晴らしいと思います。

最後の拘りについてですが、これを見つけるのはかなり難易度が高いです。

毎回同じシャツを着ている、などの拘りでしたら、気づくのもそこまで難しいことではないと思いますが、肌、化粧、香水とかのこだわりを見つけるのは大変…。

これを考える上で大事なのは、何かに力を入れているように感じたら、本人がそう思うかは別にして、とりあえず指摘してほめてみるのも一考だと思います。

本人がそう思ってなくても、何か具体的にいいと思ったポイントとかを説明してあげて褒めてあげれば、きっとうれしく思うような気がします。

 

 

 

2. 共感の哲学

共感の方策について前章で述べましたので、私なりの共感の考え、哲学についてまとめてみたいと思います。

 

 

はじめに、そもそもの前提としてですが、「共感」に絶対解は存在しないと思っています。

自己開示、多元的自己、と2回に分けて自己、心の階層やタイプ分類について記事を書きましたが、心の中にどれだけ踏み込むか、どれだけ踏み込まれてもいいか、という指標は全く目に見えないことを一つ問題として取り上げました。

最初のほうで述べた、自分の意見を表出する話でも、「批判」と受け取るかは相手次第な部分もどうしても生まれてしまいます。

小学生同士の人間関係ならまた違うと思いますが、少なくとも、思春期、自己思索を経た人間同士が関係を紡ぐ際には、相手の存在が(相手の思考回路が明確に分からないという意味で)ブラックボックスであり、(スティグマに触れる可能性があるという意味で)パンドラの箱です。

相手がどんなバックグラウンドを持っていて、どんな経緯から、今自分の前に存在しているのか。

相手が大人になればなるほど、この相手の「心の読めなさ」は、人間理解を妨げています。

だからこそ、そのブラックボックスに「共感」していく行動は、暗闇の中で、落とし穴に引っかからないように進んでいくのと同じような困難さがあると思います。

コミュニケーションの本を読んで、それを実践すれば見違えるほどに人間関係が上手くなる、と言い切れない理由と同じような気がしますね(数学の公式のようなものが存在しない、不確定要素がいつでも存在する)。


この話は、既知の仲であったとしても同じだと思います。

相手のことをそれなりに知っている、という前提があると思いますが、それこそが理解の妨げに成りうるのです。

その人を理解する際、それなりに知っている前提知識がステレオタイプになってしまう可能性があるからです。

例えば、友人としてそれなりに性格や趣味を知っている相手でも、その人の政治的信念なんて想像もつきません。

でも、私達は、「こういう考え方をするから、きっとこういう風に考えるだろう」と想定することをそれほど憚りません。

知っている情報以外では、初めて会う人と同じように手探りな状態で始まるのに、持っている情報だけで判断しようとしてしまうことがあります。

 

 

加えて、相手の言葉に全てが現れるわけではない、ということです。

アイコンタクト、服装、気分、体の向き、姿勢、動き、表情、会話の間、呼吸などなど…。

非言語的部分と言われるやつですが、これも一つ一つは言葉ほどの情報量を持たないものの、相手の状態を指し示しています。

心理学がよく誤解される部分ではありますけれど、これらの情報だけで決して「心を読む」だの何だのは出来ないです(少なくとも百発百中では不可能だと思います)。

(なので某メンタリストは「心理学」ではないんですよね。「心」なのかもしれませんが。)

情報量が0ではない(でも別に決定的に大きな情報量でもない)というのが関の山でしょうか。


私の今までの記事の内容は、言葉で交わされる会話、コミュニケーションに絞っていまして、この「見えない部分」については、意図的に何か述べることを避けてきました。

というのも、私は、ここの部分について、実践的な用途を持った事例をあまり知らないからです。

本屋で見かけるような、相手の姿勢、目線で全て分かる、といっているような胡散臭いものと、私の聞いたことのある情報は大差がないと思います。

でも、「共感」という行為を行う際には、相手の言葉に感情、論理的理解を寄せるだけでは不十分なのもまた事実です。

まるで結論が導きだせませんが、私自身が言葉を尽くして述べることが出来る範囲として、「言葉以外の要素にも情報があり、それにも気づけるといいね」といった程度なのが歯がゆい所です。

 

 

上記二つは、共感の「難しさ」のような部分でしたが、それでも、私は「共感」をいろんな人が使えるようになればいいなと思う理由があります。

それは、人は自分を理解してほしいと思うことが多いからです。

少なくとも、表だって表出し続けることが無いにせよ、「理解されたい、自分の居場所を認めてほしい」という欲求は人の中に存在するとされています。

マズローの欲求5段階説などがそれを説明する上で、一つ根拠となるでしょうか。

マズローの欲求5段階説 : コジマガ

(画像元: http://nkojima.blog.jp/archives/34112891.html

3段階目の帰属欲求(社会的欲求)、4段階目の承認欲求辺りが、社会から(コミュニティ)から、他者から認められたいという思いとなっています。

「認められる」という言葉は少しアバウトかもしれませんが、自分が居て、一緒にいて心地よいと相手が思えるような相手がいるかどうか、雰囲気があるかどうか、と解釈するのがいいのかもしれません。

学校や会社というコミュニティに所属することで、帰属欲求を満たすことが可能です。

それでも、そのコミュニティに所属している人間に認められないという状況になると、承認欲求を満たすことが難しくなります。

だからこそ、能力や性格、人当たりの良さとかの尺度に関係なく、相手に「共感」する、という技術が活きると思っています。

共感を相手にしてあげることで、相手の承認欲求はある程度満たされるでしょうし、自分のために承認欲求を満たしてくれることもあるでしょう。

(好意の返報性があるので、共感という好意に対するお返しを想定しています。)

もちろん、コミュニティに所属している人すべてに対して共感を寄せるのは難しいと思います。

それでも、自分の共感が寄せられる範囲で共感を広げていけば、「理解してほしい」といった欲求も満たされやすいようになるのではないでしょうか。

 

 

 

3. まとめのようなもの

今回は「共感」について見ていきました。

今までの記事で少しずつ触れていた内容ではありますが、私が人間関係の中で「核」のように感じる要素の一つです。

「相手と共に感じること」

私が想像出来る範囲では、時代が変わっても、社会が変わっても、大事で在り続けると思っています。人と人とが関係を紡ごうとする限り。

そして、人と人との関わり合いが、より精神的な、情緒的なものになればなるほど、「共感」が大事なように感じます。

自分への共感を大事にするように述べる本も何冊か見つけまして、この記事で用いた「相手」は、必ずしも他者である必要性はないのかも。

まずは、自分に対して、素のままの自分に共感してみるといいかもしれませんね。

 

 

 

4. あとがき

人間関係について考えるシリーズ、この記事でもって終了とさせて頂きます。

このシリーズ記事では、「良い人間関係を築くためには?」という問いに対して、私が大事だと思う考え方を紹介してきました。

人と人とが出会い、関係を作るのが、なんでこんなに面倒で、噛み合わないのか。

そして、仲良くなったと思ってもすれ違ったり、関係を続けていくことも中々に大変なことです。

それでも、どうして人間関係を続けようと思うのか。人と関わりを紡ぐことを止められないのか。

私はそんな疑問を持っています。そして、この問いが私の勉学の中においても大事な位置を占めています。

この記事の内容は、私が勉学を続ける中で少しずつ変わっていくと思いますが、アイデアそのものは変わらないような気もします。

そういう意味で、次に似たような記事を書くならば、このシリーズではない、別のものになると思いますが、次回のネタについては何も考えていません…。何か浮かんだらまた書くかもです。

 

 

 

5. 参考文献

今までの記事に載せた参考文献と内容が被る部分がほとんどです。改めてこちらに記載する本はありませんでした…。