葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

人間関係について考える ~自己編~

皆様こんにちは。葉月でございます。
 


人間関係について考えるシリーズ第4弾。今回は「自己」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

最初の記事で紹介させて頂いた、「自己開示」という考え方についてですが、ふと疑問に感じたことがあった人もいたのではなかったでしょうか。

「そもそも、開示する『自己』ってなんだろう」と。

自己開示の記事では、他者との関係性にフォーカスを当てましたが、今回はその内面、「自己」にフォーカスに当てていきたいと思います。

 

今回の「自己」というテーマに迫っていく前に、一つ概念を導入したいと思います。それは「多元的自己」という考え方です。

言葉の意味自体を問い始めると、哲学のほうに向かってしまうので、ざっくりと言うなら「複数存在する(ように見える)人間性」という意味です(分かりにくいですね汗)

 

辻氏(2004)の言葉を借りるなら、

「本当の自分」を単一的ではなく、多元的なものでありうると考えなおした。

とあります。

 

何か一つのコアのようなイメージを持たれていた「自己」ではなく、それが何個かあって、その統合体として「自己」が存在しているという解釈がなされたのです。

イメージ図を辻氏の論文からちょっと拝借して見ていきたいと思います(私が用いている用語と少し異なりますが、指しているものは同じです)。

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(ソース元: http://d-tsuji.com/paper/p15/


上の図のように、単一の自己(自己開示の記事で見た、心理的距離にも似ていますね)という捉え方をするのが「一元的自己」であり、何個か核があるように見え、それが複数集まったものを自己とするのが、「多元的自己」になります。

 


今回は、この「多元的 / 一元的自己」という視点から人間関係について考えていきます。

この概念を提唱されて、ピンとくる人とこない人に差が出てくると思いますが、いつしか述べた「八方美人」を思い出してみましょう。

相手に合わせて振る舞い方が変わる人のことを指しますが、それも多元的自己の一種と考えて問題ありません。

この多元的自己の多元性の切り替わりは、社会的にある振る舞いを求められるという条件において変わることが指摘されており、八方美人は、想起しやすい一例だと思います。

  

 

1. 多元的自己の考察

最初でざっくりと説明をしましたが、一元的自己と比較して、より詳しく見ていきたいと思います。

 

まずは、多元的自己の対立考えとなる、「一元的自己」の考え方を詳しく見ていきましょう。

主軸となる考え方は、二項対立です。

一番最初に生まれるものとして、他者からどう見られているのか、という「外観的自己」と、自分が自分をどう捉えるのか、という「内観的自己」の二つの軸が出来ます。

また、よく言われるテーゼとしては、「本当の自分」と「仮の自分」という二項対立などがあると思います。

この二つの軸は、社会に生きる人間にとって大きなものであり、ジョハリの窓なんかのアイデアにも近しいものがあります。

 

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 (ジョハリの窓。ソースはwikiの画像)

 

他者と自分が、認識しているか、認識していていないかという2*2のマトリックスで自己を把握しようとしたのがジョハリの窓の考え方です。

読者の皆様も一度表にしてみると、自分の性格とか特徴を分類する手掛かりになるのではないかと。

 

この一元的自己の考え方の中で、主に問題にされたことは、「『自己』は一つの固定した特徴、形質なのか? それとも人との関係で変わるペルソナ(仮面)なのか?」です。

奥深くの内面にまで触れていれば、一つの固定的な特徴や形質という見方が出来ますし、「表面的な」付き合いに留まっていれば、人との関係で変わるペルソナだと解釈するということです。

こういった考え方の中で、自分の奥深くにある、核となる自分というアイデアが大事なものになり、それを捜索するというのが人生目標の一つになる、といったこともあったでしょう。

 

そして、この一元的自己が「自己」の考え方の中心となってきましたが、ここ最近になって、それでは分類出来ない自己の在り方が認められるようになっていきました

それが多元的自己の存在です。

社会が発達するにつれて、各人のこなす社会的役割の数が増えていったため、その状況に応じた振る舞いが求められるようになっていったこと。

SNSの進展により、自分の望む自己を見せることが出来る環境が生まれていったこと。

上記のような理由が考えられましたが、とにかく、「表層と深層」という二項対立で観測出来ない自己が生まれてきました。

 

しかしながら、多元的自己という考え方が生まれたからといって、一元的自己という考え方がまったく廃れたわけではありません。

一元的自己の人も多元的自己の人も表れてきた、と言うのがより現状を示していると思います。

一元的自己と捉える人は、何か一つ、自分の中でとても重要に感じる何かがあって、多元的自己と捉える人は、それが複数あるように思う傾向がある、ということになります。

 
 

2. 自分なりの「自己」考察

一元的自己と多元的自己を比較検討してきましたが、そこから派生して、自分なりの仮説を立てていこうと思います。

この二つの自己の考え方は、ある一つの軸で考えることが可能だと思います。

それは、「要素の重みづけ」という観点においてです。

 

まず、一元的自己について。辻氏の図を紹介しましたが、ダーツの的のような自己のイメージ図があって、中心にいけば行く程、自己にとって大事だと思う要素になっていくという考えです。

そして、多元的自己については、ある程度(複数個)の自己の要素が並列して並んでおり、それらの複合体が自己であるという考えです。

ここで考えていきたいのが、「果たして一元的自己は本当に一つの独立した要素なのか?」という疑問です。

 

私の例を考えてみますと、私がとても大事にしている要素として、「人間関係」を挙げることが出来ると思っています。

しかし、体験記をブログに残したい、また行きたいと思っているくらい、「留学」も自分の中で大きな要素です。

さらに自分の性格を分析してみると、人間が好きという要素が挙げられると思います。

加えて、好奇心が強いというのも自分の中で大きな要素だと思っています。

これらの性格的要素、思考的要素は互いに結びついていますし(留学が人間関係への興味の大きな後押しとなった話はいつしかの記事に書いたと思います)、これらの要素はすべて、自分の中で重要度が最も高いものとなっています。

 

 

これから何か因果関係が導ける訳ではありませんが、私の自己の分類はどれに当たるのでしょうか。

人間関係という大きな主軸を想定して、一元的自己と定義することも可能でしょうし、要素ごとに分けて多元的自己と定義することも出来るでしょう。

私自身としては、一元的自己に近いものがあると思っていますが、多元的自己の要素が全くないわけではありません。

 

そこでこう考えてみましょう。

一元的自己と、多元的自己が0から100のようなスケールを持っている、白黒分かれているのではなく、グラデーションのようになっていると。

 

その人が持つ要素について、要素の重要さに応じて階層が作られているという考え方は、一元的自己の考え方です。

多元的自己を理解する際、重要な要素が並列して並んでいる状況について、一元的自己の場合とは違い、要素の重要度の重みづけをしていないと考えます。

つまり、一元的自己では要素の重みづけが細かく成されており、多元的自己では、要素の重みづけがある程度同じくらいの重要度で並んでいると考えるということです。

 

また、私の自己分析の際に「一元的自己は、一つの独立した要素なのか?」という疑問を呈しました。

一元的自己ではあるが、最も大事な要素(辻氏の図の一番真ん中の部分)が複数存在する場合を考えてみると、その大事な要素ごとに存在しているというのが多元的自己と解釈するのも可能かもしれません。

 

相手に応じて対応を細かく変えるような傾向を持つ人は、要素ごとに分裂した多元的自己、という自己理解がしっくりくることもあるでしょう。

そしてまた、八方美人みたいな多元的自己の代表のようなタイプであっても、「人から好かれたい」という、一元軸で理解を試みることも可能かと思います。

 

話が逸れてきたのでまとめます。

ここで私が述べたいことは、多元的自己、一元的自己とアイデアを紹介してきましたが、これらは二律背反な概念ではなく、グラデーションのようなものであるという考え方も出来るのではないかということです。

 

「自己」における大事な要素、些末な要素等をまとめあげる方法において、その重みづけをどう評価するかという観点から、これら二つの考え方は似た者を共有している。

また、この共通点が理由で、とある「自己」を一元的にも、多元的にも解釈出来る、という事態が存在しうるということです。

 

 

3. 人間関係における影響

自己の性質、それに付随する考えについていろいろ見ていきました。

この章では、人間関係の中でどのように影響するのかについて考えていきたいと思います。

 

まずは、会話の相手が「どのように人を捉えるのか」という問題があります。

多元的自己を持つ人は、少なからず「他者の目」を気にした自己を見せる、という風に想定出来ますし、一元的自己を確立している人は、場面に依らない「その人らしさ」を発揮しようとするでしょう。

自分と相手の会話、という場でしか見せない自己が存在するかもしれませんし、それが相手によって「素」であるという場合も考えられます。

これを確定する技のようなものは思いつきませんが、多元的か一元的かという軸で、対人関係を広く見ることが出来ることで、人間理解がはかどるかも…?

 

 
そして、相手がどう捉えるのかという問題と対になる「自分がどう捉えているのか」という問題も存在します。

自己理解が完璧だ、と自信を持って言える人はそう多くはないでしょうし、多元的自己ならば、相手によっても変化するので「自己をきちんと確定する感覚」を得るのは難しいです。

根底には共通の考え方がある、グラデーションのようなものだと説明しましたが、便宜的分け方として、自己分析をするのもいいかもしれません。

 

さらに「ペルソナ」への理解を深めると思います。

最初のほうで少しだけ触れた、仮面、外的人格と訳されるこの言葉ですが、一元的自己における文脈で理解されてきました。

多元的自己の考えを持った上で考察すると、ペルソナとして認識されてきたものが、分割された大事な要素AかBかという違いでしかないケースが存在することが分かります。

 

所謂「キャラ化」などの現象について述べられた本なんかもいくつかありますが、キャラという概念も、一つの固定したpersonalityと、変わりうるcharacterの二項対立的思考です。

こういった本で紹介されることが多いのは、キャラ化による(本当の)アイデンティティの消失を憂うことであり、一元的自己の思考に基づいています。

一元的自己の考え方を批判する訳ではないですが、多元的自己の視点からも見るならば、「キャラ」も大事な自我構成要素の一つになる、多元的自己の性質足りうるのではないでしょうか。

 

 

4. まとめのようなもの

今回は自己について見ていきました。

実生活に直に活用できるような考察ではないですが、「自己」は人間理解において大事な要素であるように感じます。

 

アイデンティティ」や「自分探し」みたいな単語が大きく意味を持つようになって、「自己」の把握を求められる風潮があるように感じるこの社会。

これに関連する論文は沢山あるように思えますが、一般に流布した、かみ砕かれた理解はまだ先かもしれません。

私自身の理解もまだまだ浅いように思いますので、気が向けば追記をするかも…。

次回で一応最後の話題となります。半分くらい哲学じみた話になる恐れもありますが、とりあえず書いていこうとか思ってます。

 

 

5. 参考文献

木谷智子, & 岡本祐子. (2018). 自己の多面性とアイデンティティの関連. 青年心理学研究, 29(2), 91-105.

辻大介. (2004). 若者の親子・友人関係とアイデンティティ. 関西大学社会学部紀要』, 35(2), 147-159.