葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

国際協調の在り方

皆様こんにちは。葉月です。

 

今回のタイトルはかなり壮大な感じですが、カナダに住んでいて自分が感じたことをまとめてみました。

国際協調について、カナダという国は多文化共生を掲げています。北米全体に言えることですが、移民の数が多いので、多文化、多民族とどう上手くやっていくかは喫緊の課題です。

私はバンクーバーで過ごしていて、いろんな見た目の人とすれ違いながらも社会がうまく成立しているように感じるので、多文化共生はけっこう上手くいっているような印象があります。

バンクーバーは特にアジアンが多いので私(日本人)が住みやすく、ヨーロッパや北米らしさ(カナダっぽさ?)、アジアやその他の地域とが混ざり合っているように感じます。

国際協調を考える上で、カナダをモデルケースとするには微妙だと思いますが(経済が安定しているのも多文化を抱えられる要因の一つに感じるので)、これからの「国際」を考える上でのヒントを持っているように感じました。

そこで、自分が感じた視点から、「多様性」や「グローバル」など、言葉だけが独り歩きしない国際協調の在り方を考えてみたいと思います。

 

まず取り上げたいのが、「留学って金持ちの道楽でしょ? に対して」という記事で少し触れた、「世界中の国から人が集まったとしても、すぐに国際交流が起こるわけではなく、国同士、地域同士で固まることが多いのではないか」という視点です。

leafkeylosttime.hatenablog.com

 

これってよく考えたら当たり前ですね。文化、言語を共有している人だと、互いの違う部分、理解出来ない部分を擦り合わせる努力、面倒くささがありません。

さらに、違う国へと移民した場合やインターナショナルな場だと、外国というだけでプレミアがつきます。

例えば、日本という国の中でラーメンや寿司のレストランを開いたとして、「日本料理」という属性が推しポイントになることは当たり前ですがありません。他にいくらでも競合がいるので。

ただ、カナダやアメリカなどでラーメンや寿司のレストランを開くと、「日本食」というイメージやブランドが付与されます。日本食(外国の食文化)であることそのものがプレミアになるということです。

商売の観点からみても、こういうお店を作るなら元々同じ食文化を共有しており、勝手をしっている自国民同士で固まるほうが簡単です。加えて、文化や宗教などで自国が恋しくなることもあるだろうけれど、国同士で固まり、コミュニティを形成することで、そういった不安を無くすことが出来ます。

チャイナタウンやコリアンタウンなど、固まった場所に飲食店や食料品店、文化センターなどが出来るのはそういう力が働いているからでしょう。

 

国同士、地域同士で固まるという点を念頭に置きながら、もう少し深く考えると、多文化のやり方に2つの方法があるように感じました。1つは移り住んできた国の文化に啓蒙、同化していき、その文化に馴染もうとすること。もう1つは、多文化がそれぞれコミュニティを作っていき、文化が分断されるけれど、大きな枠組みとして移り住んできた国の文化が存在し、多文化コミュニティがそれぞれその文化にも少し寄与している、とする考え方です。

1つ目の考え方は、何か統一された「強い」文化に全員を合わせようとすることです。これはヨーロッパなどがやっているイメージで、1つの文化に全員を強制すること、規範の意識が強くなる点が特徴だと思います。2つ目の考え方は、大きな枠組みとしての「弱い」文化を全員が保有しているけど、それを押し付けることはしない。カナダはこのイメージがあります。

 

この二つの考え方は、メリットデメリットが裏表になっていると思います。

1つ目の考え方は、国や文化として一つにまとまりやすいけど、宗教や文化などでどうしても馴染まない部分が生まれてしまうと衝突の原因となります。ヨーロッパと、北アフリカ辺りのムスリム移民との間の文化受容の難しさがこの問題に直面しているように感じる所です。

2つ目の考え方は、それぞれがコミュニティを持っていて大きな紐帯も強制力がないから、軋轢が起こりにくいが、まとまりがなくなる。この国に属しているといったアイデンティティが薄れる。これはカナダでけっこう問題になっているような気がします。特にFrancophone、フランス語圏で顕著。フランスでもないし、カナダでもない微妙な感じだからかな?

カナダ文化、アメリカ文化と聞いてイメージがしづらいのはこれが原因でしょうか。ただこれは地域やコミュニティなど、単位を小さくすることで解決出来る可能性もあるのではないかと考えます。地域単位での帰属意識アイデンティティを持てばいいという考えですね。都市化で小さなコミュニティが無くなっているという現在の潮流とは反している気もしなくはないですが…。

二つ目のほうが衝突を避けてまとめることが出来るという意味で丸いような気がします。

 

 

さて、多文化共生に対してのこの二つの考え方は、多様性(バラバラなもの)をどうまとめあげるかという視点が共通しているのではないかと考えました。

多文化といっても、ただ文化が沢山があるだけでは成立しない。

多様性、という言葉のいいイメージが一人歩きしているような気もするけど、多様な人間が集まると、文化やコミュニティの「常識」がお互いに通用しなくなるし、礼儀や善悪などのすれ違いが起こるようになります。

だからこそ、何かまとまったもの、ある程度合意が形成されているものを各個人が共有していて、そうして社会が成立する方法がとられます。

 

しかし、多文化といっても、多くの人が共有している文化か、少ない人しか共有していない文化かによっても勢力や扱われ方が変わってきます。そこで、マジョリティとマイノリティという視点から多文化共生を考えました。

ヨーロッパと比べて、カナダではアジアン差別が少ないように感じます。カナダ、特にバンクーバーでは多くのアジアンが存在していること、アジアンの種類が豊富なことが大きいように思います。

多くのアジアンがいるからこそ、種類も豊富です(韓国、中国、フィリピン、マレーシア、タイなどなど、挙げればキリがない…)

ヨーロッパにいた時は、Chineseとして侮蔑?されるなんてことがたまにありましたけど、数がある程度存在することで、個人としての特性、性格と集団としての特性や性格にある程度分類されます。

少数派を見つけた時に、多数派と異なる特徴をもっている人間を見ると少数派を劣っていると思ってしまい、個人、集団をひっくるめて差別する事態になるんだろうなぁと。

多文化といえども、その構成比率によっても考え方が変わるということですね。

 

多文化の中の少数派を考えると、多文化共生といっても、マイノリティの文化が差別されないくらいの介入を大きな「弱い文化」がする必要があるのかもしれません。

「弱い」文化と名付けているけれども、多文化と同じくらいの規範、力を持っていて、並列して存在する一つの統一規範として存在するべきなのでしょう。

 

 

書いておいてなんですが、何かこうすべきであるといった結論があるわけではありません。

生活の中でぼんやりと思う多様性の言葉の裏表、多文化共生を掲げているカナダだけれども決して理想郷ではないという現実。

ただ、自分が考える、大事なエッセンスはいくつかあります。

それは、それぞれの文化がある程度の大きさのコミュニティを保有していて、「弱い文化」を共有しているという意識をそれぞれが持つことです。

少なくとも「自分の文化が正しい」という近眼的な視点に囚われないために「弱い文化」の自覚を持っているといいのかもしれません。また、自分の文化を多数派(正義 / 善)と思い込まないように、多文化を生活の中で実感出来るくらいには、他の文化の種類や数、交流も存在していることも大事でしょう。

抽象的にまとめてみると、自国の文化を絶対的なものだと思わずに、他の文化や視点が存在するという自覚を持つこと、そしてそれを尊重することなのかなぁと思ったりします。

そういった営みが言葉だけで流行るのではなく、経験知として理解することが出来ればなおいいんだろうなぁと。

 

 

ここまで読んで頂きありがとうございました!

ではでは(・ω・)ノシ