葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

留学生活の体験記

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

突然の告白なんですが、葉月は高校生の時にベルギーに留学していました。

高校生での留学もそれなりに数が増えてきたとは思いますが、まだそこまでメジャーではない気がします。ましてやベルギーに行く人なんてほとんどいないかと。

今回は、そんな私の留学体験記についてです。

なぜブログを書こうと思ったのかと言いますと、そういえば私の留学の体験をあんまり人に話していないなぁー、とか思ったからってのが大きな理由です。

話している人には話していますが、あんまり聞かれないし、長々と話す機会を多くの人と持つことも無かったなぁということで、この場を借りて少し紹介してみようかなと。

 

とはいっても、留学ってやつはいろんな経験を含んでいまして、また人によっても全然違う体験を持っていて、いろんな角度から語ることが出来ます。今回は一年間を、自分的視点でまとめて要約するとどうなるのか、という視点でご紹介していきたいと思います(ぶっちゃけほとんど自分史ですが…)。

これから留学を考えている人のご参考にでもなればうれしいです。

 

 

 

(以下、ちょっと小説チックな留学体験記)

1. 留学決意~留学前

――――

私の中で、留学という選択肢が生まれたのは、高校1年生の頃だった。

それは、何気ないある日のこと。私は職員室の前を通り過ぎようとした所、そこに留学案内のポスターが貼ってあった。

たったそれだけの事であるが、何となく興味をそそられ、何か面白そうと感じたのだった。今考えてみても、ずっと貼られていたそのポスターに、なんでその時だけそこまで気を惹かれたのか、上手く説明することが出来ない。

 

もしかすると、5月辺りの頃だったから、高校生になりたての自分に何か変化が欲しかったのかもしれないし、どことなく自分の将来を考えるきっかけにしたかったのかもしれないし、真相はよく分からない。

私はその後、ポスターで紹介されていた、留学説明会へと足を運んだ。放課後の講堂、だだっぴろい部屋の中に人は数人程度。こんくらいの人がいるのか、といった程度以上の感想を抱くこともなく、私は席に着いた。

説明会の中で魅せられたのは、日本語が通じない世界。全く違う文化であった。

私は不思議に興奮していた。自分の知らない「未知」への好奇心が自分の中からあふれ出てきそうになるのが自分でも感じられた。自分の想像を超えた世界。どうしようもないくらいに興味を惹かれた。

しかし、なによりも私の印象に残ったのは、話している人の立ち振る舞い、その堂々たる自信、2歳しか年が違うとは思えないほど、誠実な物腰、その全てであった。

どういった経験を積んだらこんなに人間として成長出来るのか、不思議であったし、それが留学のおかげであるのなら、それはとんでもない「学び」なのだろうと感じた。

競い合う対象が、目指すべき目標が目の前に現れたと思った。

 

―その興奮冷めやらぬまま、両親に留学について相談すると、あまり揉めたりはしなかった。留学の時期に話が差し掛かるまでは。

初めは母親だけに相談をした。「一年間留学に行ってみたい」と。

その時は特に反対されることはなかった(母も料理中だったので、私の話をあまりちゃんと聞いていなかったのかもしれないが…)。

私は留学の申し込み書類に、両親のサイン以外のすべてを記入して、両親がいるタイミングを計らって話を切り出した。

 

結果だけ言うと、猛反対された。両親共に(特に父親が)、私が進学校に入っていることを引き合いにだして、高校2年生から3年生まで留学をすることに大反対をした。

今考えると、あたりまえだろうと思う。

少なくとも進学校に通わせている時点で、何かしらの学問的到達を求められているのは明らかであるし、大学受験の成績もいい方の学校であったから、両親も私にそれなりの期待をかけていたのだとも思う。

でもその時は、自分に反対する両親に強い抵抗感を覚えたのだった。

両親が大きな壁となって自分の前に立ち塞がった。私はどうしたら両親を説得出来るかということに頭を使わなければならなかった。

 

「何で留学に行きたいのか」という問い。

 

留学に付随する問題はいろいろあったが、結局はこの問いがすべてであった。

受験期真っ盛りの高校2年生から3年生にかけての留学。

それを正当化するだけの、何かをもって、両親を説得しないといけなかった。

 

結局、両親の説得には1か月を要した。その1か月の間、留学に行った先輩に話を聞く、いろんな先生にアドバイスをもらう、留学について情報をたくさん集める、など、様々な人やメディアから知恵をもらい、両親の説得材料に用いた。

そうして、自分なりの留学の理由について思ったことは、「いろんな人に会える留学は、自分の考え方を広げる上で、日本と違う社会に触れる上で、最適なのではないか」といったものだった。

正直、国際関係の学問をやりたかった訳ではない。それでも、好奇心とでも言うべき、その興味がとどまることはなく、自分の留学を両親に主張するだけの力になっていた。

今考えても、どうしてそこまで粘って説得し続けることが出来たのかという問いに対しては、はっきりとした答えを持ってはいない。

それでも、自分が知らない世界を覗いてみたいという好奇心は、知らない人と出会って、心を通わせてみたいという気持ちは、自分の中を満たしていたと思う。

そこまで私が折れないで主張したことが無かったからなのだろうか、両親は認めるというよりも、半ば投げやりに「もうどこにでも行け」といった風に書類にサインをした。提出期限日、当日のことであった(どうでもいいが、当日消印有効だったので、郵便局にめちゃめちゃ焦って向かった)。

 

ここまで長々と留学に行くまでの経緯を書いてきたが、悩んで、両親に説得しようとした、あの一か月が、自分の留学生活を下から地味に支えてくれたように感じる。

「あそこまで言い切って留学に向かったのだから」という意思が、自分の竦む足をどうにか地につけてくれる。

留学の体験を、自分の人生の中で一番大事な、自分を形作る経験だと胸を張って言うことが出来る。今はそんな風に感じる。

 

 

さて、私が留学先として選んだ国はベルギーという国ですが、何でその国を選んだのかについてちょっと書きたいと思います。

元々、私はアメリカとかイギリス、オーストラリアといった英語圏の国に留学するつもりはありませんでした。その理由は単純で、英語なら多分どうにかなるだろうと思っていたからです。

今考えると傲慢以外何者でもないですが、その当時は、言葉、文化、人間を一体として学んでみたかったというのがあり、英語はある程度知っている分、わざわざ一年かけていく必要もないのかなと思っていました。

多分、英語圏に留学した人は英語としての苦労があっただろうと思いますけれど(ネイティブの英語では、二外国語としての英語と全然速度も単語のチョイスも違うでしょうから)、当時の私はそんなことなんて考えてもいませんでした。

 

そして、私はヨーロッパに行きたいという思いをずっと持っていました。

おしゃれ、歴史的、先進国といったイメージが強いヨーロッパですが、自分も例にもれず、ヨーロッパのその優美さ、華やかさをその目で見てみたいという憧れのようなものを持っていました。

さらに、私はフランスやドイツといった、ある意味「有名」な国に行くつもりもありませんでした。それは、有名な国なら、多分大人になってからでも行ける、とか思っていたように思います。

だから、自分はあんまり知らない、所謂「小国」とやらに行ってみたかった。

そうしてヨーロッパのあんまり知らない国々を見ている時に、ベルギーという国にあたりました。

その国は、言語で国が二つに分かれているような国で、自分が参加した団体でも、ベルギーのフランス語とオランダ語で派遣地域が分かれているのが、自分にとって何よりも新鮮で、その国に大きく心を惹かれました。

チョコレートとワッフルでしか聞いたことのない国。それでも、言語的な分裂、そしてEUの中心地であるという経済的発展地。自分の興味を駆り立てるには、十分でした。

そうして自分の留学先として、ベルギーが選ばれたという訳です。

(こんだけ書いておきながら何ですが)その当時はあまり深く考えていませんでしたけど、今考えるとこれ以上ないくらい正解だったなと思います。

 

次からは留学期の話です。

 

2. 留学開始~留学倦怠期まで

――――

私の留学は、波乱の幕開けであった。

 

運悪く天候不良のため、羽田からドイツへと向かう便が遅れ、その影響で、ベルギーの首都、ブリュッセルに向かう便に乗り継ぐことが出来なかったのだ。

前述した通り、留学団体を通じての留学だったので、同じようにベルギーへと留学する日本人が何人か一緒になって、日本から出発していた。けれど、その団体のモットーである「自主性」によって、私たち日本人一行に、大人が誰も付いていなかった。

これが、この日の夜に大きな問題となる。

ドイツに着いたのが、22時のことであり、ドイツからブリュッセル行きの飛行機が無くなってしまったので、ホテルを見つけないといけなくなってしまったのだ。

異国の地について最初にすべきことが、右も左も分からない状態から飛行機会社と話をして、ホテルを見つけてもらうことだなんて、誰が想像出来ただろうか。

そこで問題が起こった。その日本人一行がみんな未成年であるので、ホテルを見つけるのがとても困難になるとの旨を伝えられたのだ。

親の許可書を見せたものの、その場にいるのが未成年だけであったから、ホテルは難しいと伝えられたのだった。

「そこを何とか…」という風に拙い英語で粘り続けて、ようやくホテルを見つけた時には、日が変わっていた(そのホテルがめちゃめちゃゴージャスだったのも、この話のオチとしては最高かもしれない)。

それでも、私達日本人一行は、どこか異国に来たことで浮かれていた。

ちょっとした冒険気分、というのが正しいのか分からないが、どこか楽しんでいた。

しかし、波乱はまだ終わらない。

 

翌日、ドイツからブリュッセルへと出発し、ブリュッセルへ着いた時が、運悪く空港のストライキの時期と重なった。

預けていた私の荷物をすべて無くされたのだ。

持っていたのは、機内に持ち込んだ、わずかな着替えとパソコン、ちょっとした小物だけであった。

長い列に並んで、受付の方と話をするも、「遺失届を出してくれ」以上のことは特に言われることがなく、その場にいた日本人留学生一行の実に半分が、ベルギーについた時に、手荷物しか持っていない状態となったのだった。

予定より一日遅れ、異様に軽い荷物を片手に、留学団体の集まりの場所へと向かった。

 

(ちなみにこの時に失くされた荷物ですが、5日後くらいに空港にもう一度探しにいった所、受付では埒が明かず、遺失物を保管する倉庫にまで足を踏み入れました。そこでようやく乱雑にほっぽらかされていた自分の荷物を発見した訳です。最初の5日はどう過ごしてたのかといいますと、ホストブラザーの洋服を借りてました。さらに、帰国した時も羽田で荷物を失くされ、荷物が届いたのが1週間後だったのは本当になんなんだとか思いました…)

 

これは、今でもはっきりと思い出すことが出来るが、私が初めて外国の空港に降り立った時、私は高揚感と緊張感を同時に感じていた。 

異国に来て一年間、しっかりと励もうと意気込む気持ち、異国へ来たという興奮と共に、海外を経験したことがなく、語学を含めた生活全般に対する不安も、現地に着くと一層膨らんでいった。

 

私が留学した国はベルギーであるが、日本から一緒に出発したベルギー留学のメンバーと別れると、そこからは、日本語が全く聞こえない環境に放りこまれた。

今思うと滑稽ですらあるが、私は初めてベルギーに着いたその日に一番ホームシックになった。

なまじ一日前に、日本人留学生達と飛行機や荷物のトラブルを乗り越えて、少し仲が良くなったのが災いしたのかもしれない。

日本語が、私の意志を伝えるに足る言語が、全く使い物にならなくなった。

それだけで、今でもはっきりと思い出せるレベルで恐怖を感じた。

「外人」が怖くて仕方なかった。英語でしかコミュニケーションをとれないことが自分を委縮させた。

 

突然ですが、初対面の人と出会った時、読者の皆様は何を話すでしょうか?

天気、政治、スポーツ、ニュース、最近ハマッていること、興味、仕事、家族…

話すことはいろいろあるでしょう。

でもその初対面の相手が、日本語を知る由もなく、私とは違った見た目をしていて、自分とは別にコミュニティを築いて話している状況を考えると、どうでしょう。

どんな話をすればいいのか、全く見当もつかない。

その時、私の置かれていた状況が、少し想像出来るのではないでしょうか。

 

閑話休題。そんな状況にあって、自分は異国についた時に感じていた、高揚感をすっかり失ってしまった。

残ったのは膨れ上がった緊張感で、それが敗北感にゆっくりとすり替わっていったのであった。

部屋に戻って、何もせずにボーっとするのも、どこか負けたような気がして嫌だったので、トイレに小一時間くらい引きこもって、ベルギーに来たことを後悔する文章をひたすらスマホに打ち込んでいたのは、今となっては苦き思い出でしょうか。

そんなくらい、自分の無力感に絶望していました。

相手の自信たっぷりな話し方に私は、発言する勇気をすっかり失ってしまった。

今考えると、大した話ではなかったのかもしれない。

それでも、その時は英語の能力とかではなく、相手の様子、自分の不慣れさでどうしようもなく落ち込んでいた。

 

日本であれば、留学団体によって、スケジュールがしっかりと組まれて、何時にあるアクティビティをするといった風に縛ってくれるものがあるが、ベルギーにいった時に、そんなものはあってないようなものだった。

留学団体のスタンスとしても、フリーに人間関係を構築してもらいたかったのだろう。

食事の時間だけ、1.5時間くらいの幅を作り、班ごとに食べてもらう形をとっていたが、それ以外では、本当に「フリー」だった。

みんなが自分の思い思いに輪を作り、会話を弾ませていて、サッカーやフリスビーをして楽しむものもいた。私はただそれをぼんやりと見て、どうしようと戸惑うと同時に、何も出来ない自分に対するやるせなさすらも感じていた。

そんな落ち込んだ時間を過ごしていたが、そんな時間は一日で終わった。

 

ホストファミリーとの対面。

ベルギーに着いて二日目、そこから10か月お世話になったホストファミリーと対面したのだった。

「よく来たな」

そんな言葉と共に家族全員とハグをした時、単純ではあるが「ようやく認められた」というような思いが自分を満たした。

私は、まだその時も自分から喋りだすことが出来ないでいたものの、ベルギー初日で感じた落ち込みは、もう無くなっていた。

そこからの一週間くらいは、学校が始まる前であったので、いろんな町を見て回り、異国を楽しんだ。

ある意味、あの一週間は、観光客として楽しんでいたように思える。

きれいな景色を見て、おいしい食べ物を食べて、とにかく楽しかった。

そうしてホストファミリーと慣れ始めた一週間後に、学校が始まった。

その一週間で、英語での会話そのものは慣れ始めてきたので、言語的なコミュニケーションの齟齬は比較的少なくなっていた。

それでも、「このまま上手くいく」なんてことはなかった。

 

当然ではあるが、ベルギーのオランダ語圏に留学していたので、学校の言語はオランダ語だ。

学校に行った初日、周りから聞こえるオランダ語はほとんど理解出来なかった。

一日、一週間、二週間と経てども、この状況が良くなる気配は見えなかった。

私はベルギーにいる人とロクに会話を繰り広げることが出来ないままでいた。

学校という小さなコミュニティの中でさえ、輪を広げることが出来なかった。

 

私は不安になった。私は留学前に意気込んでいた、自分の目標を達成したかった。「いろんな人と交流する」という目標だ。

ベルギーの私のクラスメイトは、英語をよく理解してくれる人々であったものの、自分が話を繋げることが出来なかった。

そこには英語というよりも、ベルギーの公用語の一つであるオランダ語の存在が大きくあるという風に私は考えた。

自分がオランダ語を話さないから、あんまり話が続かないのだと思った。

 

元々私は、オランダ語をベルギーに行く前にある程度勉強していたものの、現地の人の会話をほとんど理解することが出来ず、一緒の学校に通っていた留学生達と英語で会話をしていた。

クラスメイトや他の現地の生徒とオランダ語で会話するのは、ほとんど無かったのだ。

留学してから1か月くらい過ぎると、現地の生活のリズムにも慣れ始めてきて、英語でのコミュニケーションも苦をあまり感じなくなっていった。しかし、状況は決して良くはならなかった。

良く言われることではあるが、1か月くらい過ぎると、「異国にいる」という楽しさが無くなる。

異国に対する「適応」がなされるのがこの時くらいなのだろうけれども、その時が丁度、自分が悩んでいた時だった。

 

「自分のオランダ語が拙いから…。」

そんなことを頭の片隅で、言い訳のように思っていたのかもしれない。

クラスの人とほとんど会話をすることが出来ず、私はとことん「異質」な存在であり続けた。ホストファミリーは私を献身的に支えてくれたが、それでも状況は厳しかった。

ある日一度、授業(勿論全てオランダ語で行われていた)が全く分からず、半分ボケーとしていた瞬間があった。

その時、私は先生にこんなことを言われた。

「君がオランダ語で授業についていけてないのは分かる。けれども、せめて集中して聞く努力はしないのか」と。

心に深く、トゲのように刺さった。

あんまりじゃないかと。

こっちはオランダ語と、友人関係、ホストファミリーとの関係で手一杯なのに、そんなことまで要求されるのかと。

あまりにつらくて、この日は涙をこぼした。

 

家に帰って、半泣きになりながら、日本語が話せるホストシスターに相談した。

私は変な意地があったのか、そのホストシスターとも英語で話していたのだったが、その時は、日本語で私の思いを吐き出した。

「学校がしんどい。オランダ語が分からない。生活すべてがつらい」と。

私の話を聞いてくれたホストシスターの答えは、「ちょっとずつ勉強して、ちょっとずつ良くしていく」というものであった。

クラスの人達と、ホストファミリーとのコミュニケーションに、オランダ語が原因で苦戦する。

自分の描いていた、自信と楽しみに満ち溢れ、いろんな人と交流関係を築く、理想の留学生活との乖離にやきもきした。周りの人間の思考が分からなかった。

 

理想とはほど遠い状態で、言語で苦戦する自分がみじめだった。

ここで自分の支えになったのは、同じ学校にいた留学生の人たちであった。

彼らとの会話はいつも英語であったので、オランダ語での交流にコンプレックスを感じていた私でも会話を楽しむことが出来た。

しかし、彼らとの交流を深めれば深めるほど、私はある一つの疑問に悩まされた。それは、この心地よいグループの中にずっと浸っていていいのかということだ。

クラスの人達はオランダ語を使ってコミュニティを築いている中、自分は英語だけの交流で満足していいのか、オランダ語を会得して、一人でも多くの人と関わらなくていいのか、もっと広げなくて、ホストファミリーとの会話が出来なくていいのか、という思いに囚われた。

もちろん留学生たちの考え方をきちんと深く理解していた訳ではないが、留学前に描いた、そして一度は崩された自分の「理想の」留学像が、また自分の目の前に現れた。

オランダ語を学ばなくていいのか? ベルギーの文化、考え方を学ばなくていいのか? と自分に語り掛けてくる。

私は、留学生達の会話の中で得た、一握りの勇気と自信を持って、その目標にもう一度立ち向かった。

留学してから2~3か月くらいの話である。

 

3. 転換期~成長期

――――

私はしばらく経った時、クラスの人に勇気を出して話しかけてみた。

拙いオランダ語で、「一緒にお昼ご飯を食べよう」と。

しかし、クラスメイトの何人かと丸くなってご飯を食べる中、私が感じたのは、結局喋れない自分だった。

オランダ語が理解出来ない。喋れない。

たったこれだけでクラスの人が楽しそうにご飯を食べる中、私は相槌を適当に打ちながら、心の中で涙をこぼし、表では薄っぺらい笑顔を張り付けるしか方法が無くなってしまったのだ。

 

休み時間中に話すなんてことが出来たら、お昼休みも苦労しない。

結局、「いろんな人と交流する」という目標に対して、自分はロクに前進していなかったことに気づいてしまった。

ホストファミリー、一緒に通っていた留学生くらいしか、話す相手がいないことに気づいてしまった。

日本にいた頃の、友人関係の中で築いたアイデンティティが通用しない世界。

日本の常識が通じない文化は、言葉を会得しないことには何も始まらないという風に気づいたのであった。

 

私はそこからオランダ語をひたすらに勉強し始めて、とにかくコミュニケーションをとろうと腐心した。

オランダ語の動画をいろいろ探して聞き続け、家に置いてあった子供向けの絵本を端から読んでいき、ホストファミリーに相談して、小学生向けの新聞を購読してもらい、何度も分かるまで読み直しを続け、知らない単語を逐一辞書で調べ、マークを入れ、努力を重ねた。

学校の休み時間にその新聞を読み、家に帰ってからも、オランダ語の学習を重ねた。

ネイティブの高校生にまで言語のレベルを寄せるのは、数か月程度では到底不可能なのかもしれない。

それでも、そうしないことには何も始まらないと思っていた。

生活がつらくて弱音を吐いても、ホストファミリーが聞いてくれた。受け止めてくれた。私はとにかく言語の学習に力を注いだため、言語の上達は想像以上に早かった。

 

そして、それが幸いして、オランダ語で少しずつコミュニケーションをとれるようになっていった。

クラスの人が何を言っているのか少しずつ理解出来るようになっていった。ホストファミリーともちゃんと受け答えができ始めるようになっていった。

だんだんと相手の言っていることが理解できるようになり、荒野を開拓していくような気分でとても楽しかった。

そうして、この辺りの時期から、留学生が集まって騒ぐパーティーにも顔を出すようになった。

私の使った留学団体では、南米、中米からの留学生がとても多く、週末にはパーティーが行われている、という情報は一緒の学校にいた留学生から聞いていた。

「いろんな人と関わる」

その目標を胸にパーティーへと足を踏み入れたのだった。

 

そこは、一言で言うならカオスであった。

酒を飲んではしゃいでいる子、輪を作ってお話をしている子、曲を流して騒いでいる子、狂ったようにダンスしている子…。

その様子をラテンカルチャーと形容するのがふさわしいのか分からないが、私はそんな光景に、ただあっけにとられてた。

それでも、自分の目標を追うために、輪を作ってはしゃいでいる子に話しかけにいった。

何回かパーティーには行ったが、正直、楽しかったという経験よりも、話す相手を必死に探していた記憶のほうが、自分の中に強く残っている。

とにかくいろんな人と関わろうとした。

いろんな国の出身の子と会話した。

そこで、ラテンアメリカの子達の間での、スペイン語の汎用性を見た。

この経験が、自分が大学生になった時に二外国語を選ぶに当たって、スペイン語を選んだ大きな理由なのだ。

 

さらに、ホストシスターのツテで、大学のゼミに参加させてもらった。

ホストシスターは日本について勉強していて、日本とベルギーの関係について考えるゼミにも所属していた。

自分が日本人であったこともあり、そのゼミに何回か参加させて頂いた。

ベルギーは大学になると英語化が一気に進み、授業が英語で行われるのもザラであるので、そのゼミの参加者は、私と英語か日本語でコミュニケーションを図ろうとする人がほとんどであった。

そのゼミの参加者には、日本人も少しいた。

自分の母語が使えるという環境、そして、オランダ語を頑張って喋ろうとした自分を褒めてくれるゼミの参加者たち(経験則ではあるが、母語を喋ってくれる人はそれだけで嬉しいのだろう)。

大学生の視点からのベルギー生活、大学生事情なども聞くことが出来て、自分の留学にさらに別の視点をくれたように思える。 

 

それでも、言葉だけでは会話が大きく弾むことは無かった。言葉の裏にある文化的背景、さらにはその人自身のバックグラウンドが存在することを強く自覚した。

英語から始まり、オランダ語へと進んでいた、私の語学との闘いは、人との関わりの中では、第一段階でしかなかったことを知った。

ベルギーで流行っているもの、パーティーの話などで会話が弾んでいても、それがなんなのか分からないことがあった。

語学だけに勉強を絞っていた分、日本以外のヨーロッパの知識、「海外」の知識をそもそもあまり得ようとしていなかったし、元々あまり持っていなかった。

前提として知っているだろうものに「それって何?」と聞くことが出来なかったのは、それが言葉の問題ではもう無かったからだ。

言葉以前の問題ですらあった。

言い換えるのならば、言葉の問題を言い訳にすることが出来なくなっていったのだ。

明らかに前提知識が足りない。だからなのか、この時でさえ、私はクラスの人達とそこまで仲良くはなれずにいた。

 

そしてもう一つ、私が考え方を改めざるを得なくなる出来事が起こった。

それは同じ学校にいた留学生の子がクラスの子と、とても楽しそうに話している所を目撃したのが始まりだった。

その時、私はその事実が正直に言って理解出来なかった。

その留学生はオランダ語ではなく、英語でずっと会話を続けており、言葉でずっと悩んでいた自分にとってはあり得ない光景だった。

オランダ語で会話出来ないから、自分はクラスメイトと会話出来ないと思っていたのに、その前提すら破って会話をしていた。

何で英語なのに、そんなに楽しそうに会話出来るのか?

その疑問は、「どうしてオランダ語を勉強している自分が、会話に苦戦しているのに…」という嫉妬に近いものであったのかもしれない。

自分の頑張りは、ホストシスターのゼミの仲間達や、ホストファミリーから褒められていたので、腐ることは無かったものの、その疑問が拭われるわけではなかった。

その留学生の子が特別ベルギーの文化に精通していた訳では全くないのに、授業や趣味の話で楽しそうに会話しているのが、正直なところ、悔しかった。

なんで自分にそれが出来ないのか、分からなかった。

 

私は、その答えを見つけるのに、数か月を必要とした。

その間の時間は、オランダ語が上達するにつれて、広がるコミュニティや、ようやく自分なりの留学の楽しさを見つけ始めた時期でもあった。

ベルリン、パリ、ロンドン、プラハアムステルダム、そしてもちろんベルギー国内の様々な都市に旅行しに出掛けた。

自分は元々旅が大好きで、その好奇心のままにいろいろ出かけるのが本当に楽しかった。

平日の学校をなんとか耐えて、週末、長期休みにゆっくりするなり、旅行をするなりして楽しむ。

そんな安定した留学スタイルを作っていったのも、この辺りの時期である。

有り体に言うなら、この時期は、留学がだんだん楽しくなっていった時期なのだろう。

毎日がちょっとずつ楽しくなって、それと同時に、留学生活のタイムリミットがゆっくりと近づいてくるのも感じていく、そんな感情が交じり合った感じ。

それでも、自分の留学が100%楽しくなった訳じゃない。

まだ自分には、コミュニケーションの問題が残されていた。

いろんな人と会って、話をしたいという自分の目標は、まだ完全に達成しきっていなかった。

 

―私は、留学終了2、3か月前でようやく原点に立ち返ることができた。

それは、コミュニケーションは人間同士で行うものであって、それぞれ各個人が好きなようにコミュニティを築いていくという基本原則であった。

当たり前すぎて何を言っているんだと思うかもしれないが、このことをきちんと理解するのに、相当の時間を必要とした。

 

言葉なんて、お互いの意思が通じれば最悪それでも構わない程度ものであった。

もちろん、その国の言語を学ぼうとすることは、その国に適合しようとする上でとても大事なものだろう。

でも、コミュニケーションの中では、言葉が占める部分は、その中身に比べると、とても少ないものであった。

何よりも大事だったのは、その会話を楽しんで、相手と心を出来るだけ共有しようとすることであった。

なぜ自分はクラスの人とあまりうまくいかないのかと考えると、結局クラスの人達に、私の「色」をあまり見せることがその辺りまで無かったからであるように思った。

これを自覚してから、自分のオランダ語に躊躇いがほとんど無くなった。

「文脈に即さないのではないか」

「トンチなことを言っているのではないか」

その一瞬の迷いが、コミュニケーションを円滑にするわけは無かった。

 

自分に足りなかったものは、語学力は当然だが、何よりも「自分自身」であった。

自分はこうであると思い、それを言葉や態度で表出すること。そして、時に他人とぶつかることもあるけれども、コミュニケーションを続ける中で、自分なりの、自分にしか作れない人間関係を築いていくというのが、私の理想の留学生活像への道筋であったのだ。

これを意識するようになってから、留学先での生活をとても楽しめるようになり、今ではベルギーを恋しく思うくらい、楽しい思い出をたくさん、あの国で作った。

帰国日、一年前と同じ空港で集まった日本人留学生の顔つきは、みんな違えど、一年前と比べてものにならないくらい大人びていて、どこか満足したような顔つきであったように感じた。

 

ブリュッセルから飛行機が離陸した時、私は最後に泣いた。

ホストファミリーとのお別れの時には泣かなかったのに、飛行機が離陸して、地上から離れると、何故だか涙が止まらなかった。

一年間、ベルギーで足掻いて、精いっぱい生き切った。

どこかで張りつめていた緊張の糸が切れた瞬間だったのかもしれない。

そうして私たち日本人留学生は帰国した。

大事な思い出を、ベルギーでたくさん作った後に。

 

4. 帰国~今まで

――――

ベルギーの一年間の経験は、様々な側面で自分の中に生きている。

まず、時間はとてもかかったが、オランダ語をちゃんと喋れるようなレベルまで完成させることが出来たという事実が、自分の語学への自信を高めた。

それが、今スペイン語を学習する中、自分の中で強く活きていると感じる。

そして、自分が全く知らなかった異国でも上手くやれたという経験が、自分自身への自信をとても強くした。

加えて、次も自分の知らない国に入国して、ベルギーでの一年間で得た見地、経験を試すために、チャレンジしていきたいと思えるようにもなった。

自分の自信がまた砕かれるかもしれないが、今の自分ならもっと上手くやれるような、そんな気がしている。

さらに、あの一年間のコミュニケーションの迷いと抗いの中で、人間関係の築き方に、少し自信が持てるようになったし、もっと人間関係について知りたいと思うようになった。

それが、今の自分の心理学、対人関係への強い興味の原因の一つとなっている。

 

留学の経験で得られることは、三者三様だろうから、私と同じ気づきを得るかは分からない(多くの留学生に聞いて思うのが、コミュニケーションの問題は、誰もが一度は抱える問題みたいであるらしいが…)。

 

留学はハッピーな記憶だけではない。

それは一つ言いたいことではあるけれど、それと同時に、全部が全部、嫌な思い出になることもない、とも言いたい。

頑張れば、足掻けば足掻いた分だけ、きっと大きな学びと経験を得られると思う。

 

 

この文章を、これから留学を考えている人、これから留学に行く人、読者の皆様、全員に捧げて、締めくくりたいと思います。

ここまで読んで頂き、ありがとうございました。