葉月のまったりブログ

中の人の日常体験とか思ったこととかを雑記的に記していくそんなブログです。

未来思考をしてみる2

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

久しぶりの更新です…。最近将来のこととかを考える機会が多くなりました。今回はそんな自分の雑多な思索と最近の出来事とを混ぜて書いていきたいと思います。

前回の記事の内容と被る部分もありますが、こちらから先に読んで頂いても内容理解に支障はございません…!

 

 

はや大学3年生も2か月が経とうとしていて、そろそろ梅雨の時期かーと曇り空の窓を眺め、パソコンでオンライン授業を受ける毎日。

ニュースから離れて久しいので、緊急事態宣言とかその辺りの話はイマイチ分かりませんが、非常時が日常になっている最中(もう日常になっているかも)で、自分は将来のことについていろいろ悩んでおります。

 

留学のこと、就活やら学業やら、そもそも社会人になって何したいのか等々、考えることは山ほどありまして、ノートの切れ端やら裏紙やらにいろいろ書きつけて早2年くらい経った頃でしょうか。

問いそのものは少し違っているものの、大学に入ってから今に至るまで、ずっと自分に問い続けてきた命題に、(暫定的とは雖も)結論を出さないといけないとなぁと思う日々です。

 

「未来思考をしてみる」という拙筆ながら書いた文章の中にもありますが、「何をするにしても選択肢が多くて迷ったりして、将来なんてぼんやりしてる」という状況は、あまり変わっていません。

 

leafkeylosttime.hatenablog.com

 

 

変わったことはというと。自分でもかなり驚いているのですが、所謂文系大学生ルートのように、就活の説明会に足しげく参加してみたり、インターンのESの内容とか自己分析とかをしてみたりしています。

就活に心を決めた…訳ではございません。正直これっぽちも就活に対する熱意がある訳ではないです。

 

それじゃ何故か? というと、自分の中でずっと温めていた「留学計画」に関係があります。

いろいろ計画に修正を加えたり、変更したり、ガラっとプランを変えてみたりしましたが、根本にある自分の気持ちは「海外に実際に行きたい」と「そこにいる人と関わりたい」、「成長したい」辺りだろうなぁと。

交換留学、ワーキングホリデー、なんかも考えましたが、どうにも腑に落ちないような、そんな気分を味わってました(元々交換留学で進める予定だったのですが、その計画が頓挫してちょっと方向を変えました)。

 

留学を終えて日本に帰ってきたとして、就活する自分の姿がどうにも描けませんでした。

まぁ別にしなくていいや、くらいには思ってますけど、仕事未経験(アルバイトは微々たるものだと思っていますので…)の自分が、果たして仕事の場において価値があるのか、と問われると答えることが出来ません。

仕事をしないという選択肢も考えていなくはないですが、自己実現、お金をもらうという2点において、やっぱり仕事をしてみたいな、という気持ちは持っていて。

なので留学に仕事もくっ付けてみるか、くらいのノリで海外インターンに鞍替えをし、今は情報をちょこちょこ調べている最中です。

 

海外インターンをしてみるか、と決めたところで結局立ち返ってくるのが「自分は仕事空間にどんな価値があるのか」という問いでした。

いや分からん……。

というかそれを探しにインターンとかに行きたいってのがあるんですが…。なんだか同じところをグルグル回っているような気分になります。

なので取り合えず就活イベントとかに殴り込んで、就活のイメージ、企業の思惑、夏にでもインターンに参加して、日本の就業のイメージを付けよう、という考えに至りました。

 

自己分析、ESで問われる内容は意外にシビアで、まだ大学で自分が胸を張って頑張って達成できたと言えるものがない中、学生時代頑張ったことと言われても…。

高校時代の留学を語ってもいいのでしょうけれど、大学で何もしとらんのか、とかツッコミを入れられたら結構しんどそうで。

就活をナメてた、といえばまぁそういうことです。ただ、自分を深く理解するということはどこまでいっても大事だと思うので、やる時期が早くなっただけだ、とか思って取り組むようにしています。

 

業界とかいろいろ絞ったりしないといけないのかなぁと思うこともありますが、取り合えず片っ端から興味ありそうな分野に殴り込んでいきたいなと思っています。

IT、金融 ->国際支援系、農業辺りは行ってみたいなぁと思ったり。

最初に入るなら基盤を作るという意味でIT系か銀行とかいいなーとか思ってます。

まぁ今の興味は、ってところなので、多分夏休み終わった辺りで変化してそうですが。

あとは、今期で履修しているアントレプレナーシップ道場がかなり面白く、一回くらい起業もしてみたいなーと思えるくらいにはなっています。元々興味はあったのですが、興味がある、くらいで止まっていたので。

 

 

 

大学の学問関係ですと、もうぶっちゃけて言ってしまうとオンライン授業が虚無です。

大学によっても違うでしょうけれど、正式に行かないといけない用事や授業でキャンパスに行ったのはここ2年で2~3回あるかないかくらいでしょうか。

というか2,3年の2年間の授業は全てオンラインだしなぁ…(遠目)

別に全部対面にしろとか言うつもりはないですけれど(それはそれで面倒くさい)、他の人が授業を受けている様子を生で見れる機会をたまには設けてほしいなぁというお気持ちで。

周りも目的地も真っ暗で見えない夜の海をずっと泳いでるみたいで、息継ぎもクロールの泳ぎ方も、最初の頃は星を見つけて出来ていたけど、今はもう目も霞んでるし、体はクタクタで、このまま海の中に引きずり込まれたら、どうなるんだろ、なんて思えます。

終わりが見えず、周りに勉強している人間の環境がおらず、好きな学問に触れられているとは言えど、そろそろ目的を見失いそうです。

 

…愚痴はこのくらいにして。

大学の学問は、やりがいを見失っちゃったような気がしています。専攻とかそういう問題じゃなく(多分、社会心理学じゃなくなったらもっと堕ちるかなぁ)、自分の中にあった、「頑張る人を追いかけたい」というやりがいの薪をくべることが出来ていないんだろうなぁと。

勉強は普通に好きですし、社会心理学系の本とか論文を読んだりするのは楽しいのですが、授業として受ける大学の授業に面白さを見いだせなくなった、というのが正確なところでしょう。

大学1年生の後期にもこういうことを思った時期がありますが、あの頃とは違い、反発的につまらないと思うのではなく、無感動的な、情動がない「つまらない」という感情が自分の中にあると思っています(伝わるかなこれ…?)。

 

卒論を書く際には、自分の仮説を検証出来るいい機会なので、実は結構楽しみにしています。というかこれからの学問的楽しみがそのくらいしかない…。

それまでは単位とGPAをコスパよくこなす、ただの作業ゲーとしてしか大学生活を捉えなくなる未来を考えると(今も実際そうなってますが)、大学に入って「学問」を満足しないまま終わっちゃうのかな。

大学に入ったことそのものは全く後悔していませんし、様々な学びがあって本当に恵まれているなぁと思うのですが、残念だな、なんて思うばかりです。

 

 

 

そんなこんなで留学、就活とかの未来事象に対して、何か大きなムーブメントが起きたわけではないですが、自分の中の迷いの振れ幅が小さくなってきたような気がしています。 

自分の進む未来を何となく考えると、何となくやりたいことを好きにやってそうな気がしますが、惰性で流されたまんまの自分ではまだ無理だろうな、と思うので、取り合えずはいろいろ行動してみることにしました。

最近ではメルカリを始めて、いろいろなものを断捨離しています。

あとは別の大学のゆるーいサークルに入ってみたり、筋トレ継続のためいろいろ種目を変えてみたり、資格試験受けてみたり。

そういう小さな努力の芽が自分の人生のどこかで芽吹いてくれないかな、と期待してます。

 

まだまだ死ぬまでには年数があると思っているので、取り合えずは頑張ってみようかな、と。

そんな風に自分に言い聞かせてインターンを調べてみるのも、また自分らしいのかな、なんて思ったり。

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ここまで読んで頂きありがとうございました! 

前回に引き続きとりとめがありませんが、こんなこと考えてるんだーくらいに思って頂けると幸いです。

未来思考をしてみる

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

大学の後期課程に進むにあたって、自分の将来とか、やってみたいこととかをいろいろ考えてみたいと思い、こんな文章を書いてみました。

考えれば考えるほど、こういうものはどんどん穴にハマっていくような気がしますが、沼にはまっているの思考の雰囲気をお伝え出来ればと思います笑

 

 

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私が後期課程から専門に学修する学問が、「社会心理学」という分野になります。

社会心理学は、個人と社会の相互作用を学ぶ学問というのが大枠であり、アメリカの黒人差別の問題、傍観者効果、などが社会心理学の話題として比較的有名なお話でしょうか。

この学問、私としては「社会という大きなものをマクロ的に見る」学問だと思っています。

 

社会という集団の中には、人が大勢いて、法律というルールや道徳に縛られながら生活をしていて、そんな社会を、「社会」という大きな視点から仕組みを見ていく、という部分に自分は惹かれている気がしています。

 

 

この社会心理学専攻に至るまでの自分の一年半の大学生活で、何か自分の中で考えは変わったのかと考えてみると、そこまで大きくシフトチェンジしたわけではないです。

結局、留学で自分の中に深く刻まれた、人と関わろうとすること、人との関係について考えること、という観点が自分の興味の主軸であり続け、それが専門を決める際の決定要因にもなりました。

 

今振り返って思うと、今までの自分の学問のフォーカスは、ミクロ的なものが多かったです。

6~7月辺りにブログにあげていた「人間関係について考えるシリーズ」の中において、共感、話し方、関わり方という面においては、ほとんどすべて個人対個人の関係が念頭にありました。

個人的要素として共感や話し方を考えていたのは事実で、その姿勢が社会的な何かに結び付くとは少し考えにくいのかもしれません。

 

ただ、人と人との関係において、ミクロ的な視点しかないと片手落ちになるのではないとつい最近思い始めました。

自分は今まで人の経験やそこから生まれる個人的な部分に大きく着目してきましたけど、人には社会的な地位があって、その人が属している組織やグループがあって、経験がある。

その人個人であると同時に、その人は社会(グループ)に属している一員であり、そのグループ内の関係場の中で生活しています。

 

考えれば当たり前の話ですが、個人としての経験から(目に見える)行動、振る舞いにすぐ直結するわけではなく、社会的状況、その人が持っている社会的地位、関係も影響を受けます。

ロミオとジュリエットの話でもないですけれど、個人と個人の人間関係が、この世の中にある関係のすべてにおいて決定的要素だと確定できるほどのものは恐らくないです。

 

 

社会心理学の話に戻りますと、この学問のマクロな視点を学ぶことで、自分の中にミクロとマクロの二つの視点を得ることが出来ると期待しています。

そして、今まで自分にとって薄かったマクロな視点について学ぶことが出来るので、人間関係について、より深い考察が出来るのではないかとか思ったり。

 

少しだけ社会心理学について齧って勉強してみたりしたのですが、どうも人間関係についての知見が少なめなように思っています。

恐らく、人間関係を客観的かつ定量(定質)的に観測する手法があまり整えられていないからなのだと思いますが、この難題に挑んでみたい気持ちがけっこうあります。

教育心理学発達心理学とかの分野だと、家族関係、青年の友人関係とかの研究報告が蓄積されているっぽいので(Google Scholarで検索した感想)、ここら辺の分野にもアンテナ張っておきたいなー、と。


勿論、学問がすべてを解決するという思考になっても実務的には片手落ちだから、頭でっかちにならないようにしたいという思いはあります。

専門課程からの自分の学びの方向性としては、人間関係というダイナミックな行動折り合いを、ミクロマクロ的視点から理解したいという風にまとめられるでしょうか。

 



大学にいる間の学問はこのくらいの考えがありますが、将来の話になると、どうもボヤボヤしているように感じます。

将来について、何か確固たる考えや指針があるわけではない。

別に、これについて嘆きたいのではなく、将来の不確定性を考えてバッファを残したい、みたいな思いはありますが…。

 

コロナで揺らされる社会を見て、一番に思ったことは「将来は不透明」といったことでした(ちなみにこの不透明、という言葉をネガティブな意味に捉えてほしくないです…)。

将来のことに予測を立てても、その見立てを簡単にひっくり返してくれるイレギュラーが確かに存在することを強く認識しました。

 

ちょっと余談になります。社会の激動は、凝り固まった価値観や規範を揺るがすパラダイムシフトのきっかけ足り得ると思っていますので、社会の不透明性は、ある程度存在すべきだと私は思っています。

どんな法律の条文も、文字に残されて、そこで時間を止めてしまえば、時代に合わなくなる日は必ずやってくる。

 

そして、人の傾向として、現状のままで留まることを基本的に是とします。

この「現状」という言葉をどう解釈するかで議論が出来そうにも思えますが、ざっくりと言ってしまえば、基本的に人は「そのままでいい」と思う生き物なのです。

現状を変えるには(認知的、精神的)資源を必要とし、今ある現状に不満があっても、人は適応するのが得意ですから、ある程度の時間が経てば慣れます。

 

自分はここまで考えて、社会のうねりに合わせられるバッファを残しておく大切さを少し実感しました。

自分が足をつけて満足した「そのままでいい」足場を、ある程度動かすことが出来るように、社会の変動に身を任せられるように。

 

 

閑話休題。今、自分の中には「人と関わる仕事をしたい」くらいのアバウトな考えしかなく、仕事という形において、何かそれ以上のアイデアがありません。

「いや、大体の仕事って人と関わるでしょ」と、とある人に言われたのは耳が痛いお話でしょうか。

仕事、お金稼ぎを結んで考えれば、とにかく金銭的待遇のいい場所、というものが一つ考えの軸になると思いますが、最近の情勢は変わってきているような気がします。

 

所謂「やりがい」と言われるような言葉で語れるような、仕事の意味。

そんな考え方を採り入れると、自分の興味や関心に即した仕事というものを探さないといけないような気すらしてきます。

でも、「仕事って、自分がやってて楽しいと思うことをやるんじゃなくて、自分が出来ることをやるもんじゃないかな」といった、高校同期の言葉もとても心に残っています。

 

もっと単純な命題に掘り下げれば、生きる上で必要なお金を稼ぐのが仕事、という考え方も出来るでしょう。

そこに何か「えり好み」や「偏見」を加えることはあんまり意味がないんじゃないかと。

確かに、ずっと理想の仕事を頭に思い描いて夢想するよりは、何か仕事を手にしてみて、その中で生きるためのお金を、自分の出来ることで稼ぐ、という考え方は非常に分かりやすい。

 

 

自分の中で何が問題なのかと言えば、いろいろ考えることがあるけれども、自分の中で方向性が定まってない、ということなのかなぁと。

仕事という形でも、社会貢献をしていきたいという朧気な気持ちはあるけど、何をしたいかあまり決まってません。

 

自分の学問的興味を考える辺り、サービス業辺りの職種が近いような気もします。

それでも、セールスのバイトをしてみた感想として、他人に物を押し売る感覚がどうにも抜けなくて、自分には向いてないと思ったり。

接客業とかを考えなくもないですが、関係の長続きを想定出来ない人に対して愛想を振りまくのはどうにも苦手で、悩んでしまいます。

カウンセラーとかアドバイザーとかは結構興味ありますが、実際の働いているイメージが無いってのが自分の中で痛手な気がしてたり。

 

職業の選択に限らず、大学から先の未来が、自分の想定以上に霧がかかっているように感じてしまう。そんな感覚を覚えます。 

大学の間で検討している留学も、計画のスタートアップがどうにも進まない…。

 

いろいろ考えてみましたが、「大学一年を振り返る」でも書いた、選択肢の多さ。その多さが、自分の方向性を少し惑わせているような気もします。

leafkeylosttime.hatenablog.com

 

なろうと思えば、何にでもなれる。子供の頃の夢想のような言葉だけれども、少なくとも、恵まれている自分の環境において、この言葉は相当真実味を含んでいるように思えます。

休学、留学、院進、就活、労働…。

選べる未来は、いろいろあって、あるからこそ迷う。

選んだ未来で確定するわけじゃないけど、きちんと選ばないとなぁという責務のような重みを何となく肩に感じる。

 

ここから先の未来は、社会の中での自分の抗いになるでしょうか。

だからこそ、選べる選択肢をちょっとずつ絞っていくのも大事かもしれないし、自分の興味の方向性をもう少し実学的に絞っていくのも大事かも。

選択肢として残っているものをシミュレーションしてみて、自分の中でどう思うか考えてみてもいいかも?

今自分のすべきことはこの辺りのことなのかな。

 

 

もうちょっと霧の晴れた未来指針みたいなのが組みあがると気楽なのかもしれませんが、それはこれから先の考える行動次第でしょうか。

なんとなく社会は、日常という慣れを取り戻しつつあります。

そんなゆっくりとした現状維持を眺めながら、後期課程の授業始まりを何となく待ってみる。

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ここまで読んで頂きありがとうございました…! とりとめのない散文みたいですが、楽しんで頂けたら幸いです。

 

人間関係について考える ~共感編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

 

人間関係について考えるシリーズ最終弾。今回は「共感」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

傾聴や雑談の記事で少しこの言葉に触れてはいますが、今回は深く掘り下げていきます。

カウンセラーとかがよく用いる「共感」という言葉。

英語では"empathy"ですが、情緒、感情移入といった意味も存在します。

 


共感、という言葉がどういう行為を示しているのか。

漢字として理解しようとすると、「共に感じる」ということになり、一つ大事なポイントがここから生まれます。

共に感じる、というのが共感であって、「あなたが」感じるのではない、ということです。

傾聴の記事で紹介しましたが、相手の話を、相手の意見として理解してあげることが大事だと述べました。

これと同じように、「私があなたを感じる」のではなく(主体を自分だけに置くのではなく)、「(私とあなたで)共に感じる」というのが共感の原義です。

 

なので、日本語でいうなら「同意」ではありません。

相手の意見が受け入れられなくても、それでいいのです。

受け入れられなくても「あなたの意見はこういう風で、このようなロジックで考えているんですね」と知れればそれでokです。

つまり、意見、考え方の論理的理解をした際に、自分の意見を変えて、それを取り入れることではないんです。

相手が、どういった感情と思考で意見を持っているのか、考えを表出しているのか。

「共感」に必要なことは、それを感じることだけです。

 

 

 

1. 共感の方策

今までの記事の総まとめみたいな風に感じるかもしれませんが、「共感」に大事な方策について考えていきたいと思います。

 


まずは、相手のことに興味を持ちましょう。

雑談の記事でも書きましたが、これがないことには、相手の話や感性に対する共感が始まりません。

自分の興味を広げることも一つ手だとは思いますが、相手の話を楽しむことも出来ると思います。

自分が興味がない話題であったとしても、相手が興味を持って語ってくれる話を聞けば、面白いと思える側面を発見出来るかもしれません。

そして、それを聞く際には、仕事や趣味などの、一般的に雑談の話題として認知されている程度のもので十分です。

自分と全く同じ仕事、趣味をしている確率は高くはないでしょうし、もし同じ職業であっても、共通要素から雑談を盛り上げる道具として用いることが出来ます。

自分の知らないことを知っている、体験している、目の前の人に関心を寄せてみましょう。自分と違う意見、観点、体験を「聴いて」みましょう。

共感の要素であり、傾聴、雑談の要素としても大事なものです。

 


次に、自分の思ったことを素直に表出してみましょう。

最初のほうで述べましたが、これは相手の意見に対する同意である必要はありません。

(むしろ、自分の意見を表出することで、相手が「批判された」と感じてしまう場合もありますので、意見を表出することは避けたほうがいいのかも…?)

これに関しましては、人に依る部分が多いのも事実ではありますが。

ここで表出すべきなのは感情です。相槌やちょっとしたジェスチャーがそういった役割を担っていることが多いですね。

嬉しい、悲しい、驚き、感動、興味、不思議、疑念等々…、相手の話を聞いていて、心の中にこういった感情/感覚が生まれることでしょう。

マイナスの感情を表出することが避けるほうがいいですが、そういったものも全部示してみるということです。

マイナスの感情につきましては、表現を変えたり、捉え方を変えて表出してあげれば、自分の思ったことを表現することに繋がると思います。

そこに、自分の考えや意見の解釈を混ぜる必要はなく、ただふと思ったままに示せばいい。

相手もその反応を見て、説明をするかもしれませんし、欲しいと思っていた反応であれば、会話が弾んでいくかもしれません。

 


そして、相手のことを褒めましょう。

お世辞、おべんちゃら、おべっか、などなど、何か便益を図るための褒めに対する否定的な言葉がありますが、褒める、とはそんなものではないです。

何か相手の飛びぬけた才を、惜しげもない美辞麗句で称える、だけが褒めることではありません。

イケてる服装を着ていたら、「いいファッションだね」と言ってあげること。作業を手伝ってもらったら、お礼と共に「やさしいね」と言ってみること。

ちょっとしたプラスの部分を見つけて、それを認めてあげること。

こんな程度のことでも、褒められた側は、褒められて嬉しいですし、気分が良くなるものだと思います。

寧ろ、このくらいの誉め言葉の方が、「そんなことないですよ~」と謙遜してしまうレベルにならないので、素直に受け取られやすいかもしれません。

私自身、人を褒めるのがとても苦手で、いつも気に留めていることがあります。

それは、「人と違う点」「最近変わった点」「こだわっている風な点」を探すことです。

 

周りの人と比べて、何か違うファッションであったり、風格、感性、意見を持っていることは、その人独自の特別なものかもしれません。

相手に興味を持てるようになる第一歩だと思いますので、そこを褒めながら、相手のことを知っていくのもアリでしょう。

または、髪型、髪の色、靴、アクセサリーなんかは、変わったことを指摘されて嬉しくなった経験を持っている人もいるのではないでしょうか。

私自身、時計を変えた時にそれを友人に指摘されたことがあり、「こんな所まで見ているのか」と驚いた経験があります。

相手のことを日頃からよく見ていないと変化に気づけないものですので(注意して物を見ないと認識の俎上に上がらないことは、認知心理学とかで示されていた気がします)、それを指摘して褒められることが出来るなら素晴らしいと思います。

最後の拘りについてですが、これを見つけるのはかなり難易度が高いです。

毎回同じシャツを着ている、などの拘りでしたら、気づくのもそこまで難しいことではないと思いますが、肌、化粧、香水とかのこだわりを見つけるのは大変…。

これを考える上で大事なのは、何かに力を入れているように感じたら、本人がそう思うかは別にして、とりあえず指摘してほめてみるのも一考だと思います。

本人がそう思ってなくても、何か具体的にいいと思ったポイントとかを説明してあげて褒めてあげれば、きっとうれしく思うような気がします。

 

 

 

2. 共感の哲学

共感の方策について前章で述べましたので、私なりの共感の考え、哲学についてまとめてみたいと思います。

 

 

はじめに、そもそもの前提としてですが、「共感」に絶対解は存在しないと思っています。

自己開示、多元的自己、と2回に分けて自己、心の階層やタイプ分類について記事を書きましたが、心の中にどれだけ踏み込むか、どれだけ踏み込まれてもいいか、という指標は全く目に見えないことを一つ問題として取り上げました。

最初のほうで述べた、自分の意見を表出する話でも、「批判」と受け取るかは相手次第な部分もどうしても生まれてしまいます。

小学生同士の人間関係ならまた違うと思いますが、少なくとも、思春期、自己思索を経た人間同士が関係を紡ぐ際には、相手の存在が(相手の思考回路が明確に分からないという意味で)ブラックボックスであり、(スティグマに触れる可能性があるという意味で)パンドラの箱です。

相手がどんなバックグラウンドを持っていて、どんな経緯から、今自分の前に存在しているのか。

相手が大人になればなるほど、この相手の「心の読めなさ」は、人間理解を妨げています。

だからこそ、そのブラックボックスに「共感」していく行動は、暗闇の中で、落とし穴に引っかからないように進んでいくのと同じような困難さがあると思います。

コミュニケーションの本を読んで、それを実践すれば見違えるほどに人間関係が上手くなる、と言い切れない理由と同じような気がしますね(数学の公式のようなものが存在しない、不確定要素がいつでも存在する)。


この話は、既知の仲であったとしても同じだと思います。

相手のことをそれなりに知っている、という前提があると思いますが、それこそが理解の妨げに成りうるのです。

その人を理解する際、それなりに知っている前提知識がステレオタイプになってしまう可能性があるからです。

例えば、友人としてそれなりに性格や趣味を知っている相手でも、その人の政治的信念なんて想像もつきません。

でも、私達は、「こういう考え方をするから、きっとこういう風に考えるだろう」と想定することをそれほど憚りません。

知っている情報以外では、初めて会う人と同じように手探りな状態で始まるのに、持っている情報だけで判断しようとしてしまうことがあります。

 

 

加えて、相手の言葉に全てが現れるわけではない、ということです。

アイコンタクト、服装、気分、体の向き、姿勢、動き、表情、会話の間、呼吸などなど…。

非言語的部分と言われるやつですが、これも一つ一つは言葉ほどの情報量を持たないものの、相手の状態を指し示しています。

心理学がよく誤解される部分ではありますけれど、これらの情報だけで決して「心を読む」だの何だのは出来ないです(少なくとも百発百中では不可能だと思います)。

(なので某メンタリストは「心理学」ではないんですよね。「心」なのかもしれませんが。)

情報量が0ではない(でも別に決定的に大きな情報量でもない)というのが関の山でしょうか。


私の今までの記事の内容は、言葉で交わされる会話、コミュニケーションに絞っていまして、この「見えない部分」については、意図的に何か述べることを避けてきました。

というのも、私は、ここの部分について、実践的な用途を持った事例をあまり知らないからです。

本屋で見かけるような、相手の姿勢、目線で全て分かる、といっているような胡散臭いものと、私の聞いたことのある情報は大差がないと思います。

でも、「共感」という行為を行う際には、相手の言葉に感情、論理的理解を寄せるだけでは不十分なのもまた事実です。

まるで結論が導きだせませんが、私自身が言葉を尽くして述べることが出来る範囲として、「言葉以外の要素にも情報があり、それにも気づけるといいね」といった程度なのが歯がゆい所です。

 

 

上記二つは、共感の「難しさ」のような部分でしたが、それでも、私は「共感」をいろんな人が使えるようになればいいなと思う理由があります。

それは、人は自分を理解してほしいと思うことが多いからです。

少なくとも、表だって表出し続けることが無いにせよ、「理解されたい、自分の居場所を認めてほしい」という欲求は人の中に存在するとされています。

マズローの欲求5段階説などがそれを説明する上で、一つ根拠となるでしょうか。

マズローの欲求5段階説 : コジマガ

(画像元: http://nkojima.blog.jp/archives/34112891.html

3段階目の帰属欲求(社会的欲求)、4段階目の承認欲求辺りが、社会から(コミュニティ)から、他者から認められたいという思いとなっています。

「認められる」という言葉は少しアバウトかもしれませんが、自分が居て、一緒にいて心地よいと相手が思えるような相手がいるかどうか、雰囲気があるかどうか、と解釈するのがいいのかもしれません。

学校や会社というコミュニティに所属することで、帰属欲求を満たすことが可能です。

それでも、そのコミュニティに所属している人間に認められないという状況になると、承認欲求を満たすことが難しくなります。

だからこそ、能力や性格、人当たりの良さとかの尺度に関係なく、相手に「共感」する、という技術が活きると思っています。

共感を相手にしてあげることで、相手の承認欲求はある程度満たされるでしょうし、自分のために承認欲求を満たしてくれることもあるでしょう。

(好意の返報性があるので、共感という好意に対するお返しを想定しています。)

もちろん、コミュニティに所属している人すべてに対して共感を寄せるのは難しいと思います。

それでも、自分の共感が寄せられる範囲で共感を広げていけば、「理解してほしい」といった欲求も満たされやすいようになるのではないでしょうか。

 

 

 

3. まとめのようなもの

今回は「共感」について見ていきました。

今までの記事で少しずつ触れていた内容ではありますが、私が人間関係の中で「核」のように感じる要素の一つです。

「相手と共に感じること」

私が想像出来る範囲では、時代が変わっても、社会が変わっても、大事で在り続けると思っています。人と人とが関係を紡ごうとする限り。

そして、人と人との関わり合いが、より精神的な、情緒的なものになればなるほど、「共感」が大事なように感じます。

自分への共感を大事にするように述べる本も何冊か見つけまして、この記事で用いた「相手」は、必ずしも他者である必要性はないのかも。

まずは、自分に対して、素のままの自分に共感してみるといいかもしれませんね。

 

 

 

4. あとがき

人間関係について考えるシリーズ、この記事でもって終了とさせて頂きます。

このシリーズ記事では、「良い人間関係を築くためには?」という問いに対して、私が大事だと思う考え方を紹介してきました。

人と人とが出会い、関係を作るのが、なんでこんなに面倒で、噛み合わないのか。

そして、仲良くなったと思ってもすれ違ったり、関係を続けていくことも中々に大変なことです。

それでも、どうして人間関係を続けようと思うのか。人と関わりを紡ぐことを止められないのか。

私はそんな疑問を持っています。そして、この問いが私の勉学の中においても大事な位置を占めています。

この記事の内容は、私が勉学を続ける中で少しずつ変わっていくと思いますが、アイデアそのものは変わらないような気もします。

そういう意味で、次に似たような記事を書くならば、このシリーズではない、別のものになると思いますが、次回のネタについては何も考えていません…。何か浮かんだらまた書くかもです。

 

 

 

5. 参考文献

今までの記事に載せた参考文献と内容が被る部分がほとんどです。改めてこちらに記載する本はありませんでした…。

人間関係について考える ~番外編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

次回で最終回とか言っていたこのシリーズですが、ふと書きたくなった内容が頭の中に浮かびましたので、番外編として考察をしていきたいと思います。

題して「オンラインとオフラインの人間関係の違い」について。

 

コロナの影響から、学校や会議などがZoom、TeamやSkype等のネットサービスを用いて行われるようになり、「オンライン飲み会」「オンラインホームルーム」など、オンラインの登場の場面が増えました。

このオンラインの状況について、従来の対面のコミュニケーションとはどういった点で違いが生まれているのか。さらに、その違いからどのような状況が生まれると想定されるのか、について考えていきたいと思います。

 

 

議論に入る前に、予めこの議論の「取り扱う幅」について説明しておきます。

「オンライン」「オフライン」という言葉ですが、具体的には、従来の顔を向き合わせて、人と話をするコミュニケーションの形態を「オフライン」とし、ZoomやTeam、Skypeなどのオンラインツールを用いたコミュニケーションを「オンライン」として説明しています。

 

そしてTwitterやLineなどのSNSと、 ZoomやSkypeなどのツールでは、コミュニケーションの媒体が、文字と声、加えて顔が見える、見えないなどの違いを内包しているので、「オンライン」という言葉の中に文字コミュニケーションを主とするSNSは含みません。

また、「SNS」の中についての分類(Twitterやブログのように一般に広く公開される形のものと、Facebookのような、承認制の閉じたコミュニティのもの、といった区別)は行わないこととします。

 

 

1. 「SNS」, 「オンライン」、「オフライン」の機能における違い

SNSを含めた、この3つのパターンのコミュニケーションの違いについて比較していきたいと思います。

 

SNSは(先の定義で定めたように)文字コミュニケーションが主であり、匿名性があるように思われています。それに付随して、顔を合わせたコミュニケーションではない、という点が挙げられます。


「オフライン」は手話、筆談などのケースを一旦除いて考えると、音声コミュニケーションを主としており、顔を合わせたものであるため、匿名足り得ることはないですね。

そして、後の議論に繋がりますが、自分との場に「人間感覚」を共有しているというように感じるということも大事なポイントだと思います。

*この「人間感覚」という単語ですが、皮膚感覚のような、接触感覚的なものに加えて、相手が生身の人間として自分の目の前に存在しているとする感覚。と定義しておきます。


「オンライン」は音声的側面に加えて、チャットのような文字コミュニケーションの側面も存在しています。顔出しも、カメラをオンにするかしないかで選択することが出来ます。それなので、匿名性についても、匿名になろうと思えば不可能ではない、といったレベルで担保されていると思います。そして先に紹介した「人間感覚」は完全には存在しません。

 
ここで、まず「オフライン」と「オンライン」+「SNS」について比較検討したいと思います。

文字化、匿名のコミュニケーションにおける、「オフライン」との違いとなりますと、まず、 文字の与えてくれる情報量が少ないということ。

これは、顔が見える状態でのコミュニケーションであれば、表情や体の動かし方、視線や雰囲気などの非言語情報も同時に来るので情報量が多いですが、文字だけの情報では、その言葉の解釈の仕方で、その人の考えが誤って理解される可能性を孕んでいます。

また、言葉のトーンすら文字に乗らないので、冗談や文字通りの解釈などの難しさが格段に高くなります。


次に、匿名による情報発信の責任の無さが挙げられます。例えばコロナ後のツイッターにおけるデマの流布や、不安の流布は莫大な力を持っていました。

4~5月にSNSを見ていた人ならば、想像に難くないと思います。

そういった情報を発信、拡散する際に、発信元の身元や社会的ステータスが不透明なままに情報を流すことが出来てしまいます。

 

 

2. 「オンライン」と「オフライン」の比較

前回の章では「SNS」も加えた中で考察していきましたが、この章では、「オンライン」と「オフライン」に絞って考えていきたいと思います。

ここから先の「オンライン」と「オフライン」の検討においては、会社や学校のZoomのコミュニケーションを基軸に考えるので、匿名の状況は想定されないものとして考えます。


この状況で考えると、文字化と音声、先の章に述べた「人間感覚」、ツール上でどうしても発生してしまうラグ、がコミュニケーションの違いにおいて、大事な要素として考えられると思います。

 

*文字化
チャットでのコミュニケーションは文字ですので、文字化についても考察していきます。

文字でのコミュニケーションは、声の場合と違って、文字の形で残ってしまい、音声のように一過性に消えてしまうものではありません。なので、音声のように生産と消費が早いペースで行われることが少なくなります。

また、文字と文字のコミュニケーションでは、相手が自分の文字をどう解釈したのか分かりづらいです。文字の形として残ってしまうことは、相手に様々な解釈を「ずっと残る形」で提供しているに等しいからです。

そして、音声で表現出来るが、文字化するのが難しいアイデアなどが存在すると思います。特に、アイデアとして朧気にしか頭にないものを文字化することが難しい風に感じた経験は持っている人が多いのではないでしょうか。

 

*「人間感覚」
先に一応の定義をしましたが、目の前に生身の人間がいるという感覚です。

「オンライン」では、カメラによってその人の顔や体の画像は共有されているため、SNSよりは人間感覚は高めであると想定出来ますが、「オフライン」の場合と異なり、生身の人間が目の前にいるという感覚は、どうしても完璧に補完することが難しいです。

 

*ラグ
「オフライン」の場合では起こりえないラグが「オンライン」では存在します。

例えば、マイクからの音声の入り具合、カメラ画像共有時のその人のモーションのラグなどで、コミュニケーションの中に新たな阻害点が生まれている印象があります。

受け取り手の環境(Wifi環境、マイクやイヤホンの調子など)にも影響を受ける要素があり、「音声を理解する、発信する」という点において、「オフライン」にはない煩雑さがあります。

また、これが原因で、会話の中断やリスタートが行われることも少なくなく(私自身よく経験することですが)、オンラインの会話の不便さを浮き彫りにしているように感じます。

 

ここからは先に述べた3つの点を踏まえて、「オンライン」と「オフライン」の違いを詳しく見ていきます。

 

これは友人が言っていたことですが、「オンライン」が「オフライン」の補佐のような役割として認識されているという印象があるということです。

ラグの部分でも説明しましたが、聞き手、話し手の環境に影響されるものがあり、人数が増える程会話が難しくなるということが一つ考えられます(悪い環境の人が一人いると、ラグは全体に波及する…)。

これに加えて、オンラインの喋りと喋りの間の長さが、そのラグ等に気をつかった結果として長くなっているように感じるということです。

大勢の人が一斉に話をしてしまうと聞き取れないハウリング状態になってしまうことから、一人だけが会話している状態が望ましいのですが、会話の主が誰になるかなんて雑談では決まっていませんので、「譲り合い」や「遠慮」といった社会心理も働いているのではないかと感じます。


次は「オンライン」であることの利便性です。

とにかく会話に参加している人のいる場所を選ばない、つまり会話が同じ物理空間にあることを条件にしなくなったことが大きいと思います。

次の章で見ていきますが、これによって会話の可能性自体は広まったと思います。

「オフライン」では、人と人とが会話する時には、その会話参加者全員がある場所へ向かい、同じ物理空間を共有しないといけない、という制限がありました。

対して「オンライン」ではその分のコストが必要なくなったため、そのコストを差し引いたら(家を出てどこかへ向かう面倒さがないなら)会話に参加出来る幅が広がるように感じます。

しかしながら、次のパラグラフで見ていきますが、会話の可能性は広がったものの、「会話の場」が生まれる可能性を増やしたか、と言うと、そこには議論の余地が残ると考えます。

 

そして「会話の場」という意識についてです。

会話の場自体は、「オフライン」だと非常にユビキタスです。軽く挨拶をするだけの間柄、ちょっと御喋りをするだけの間柄の人間関係を持っている人も多いでしょう。

先ほどのパラグラフで少し触れた、同じ物理空間を共有しないといけないという話ですが、「オフライン」では逆に、「同じ物理空間を共有しているから」会話の場が出来ることがあったと考えられます。
(この例として分かりやすいのは、「同じ電車に乗っているから」とか、「席が隣になった」から話すクラスメイト、などだと思います。そういった間柄の人、いませんでしたか?)

 

「オンライン」だとその理由でもって会話が始まることがないため、そこから始まる会話の芽は出にくいです。

こういった会話は短時間(雑談みたいなもの?)であることが多いですが、こういった短時間の会話の場の形成が行われにくくなっているような印象があります。


「オンライン」での会話では、きちんと「会話の場」を作る必要があります。

「同じ物理空間にいるから」といった物理的理由ではなく、会話を行うための場所を作らないといけない、といった意識が生まれることで、ある程度の長さ、内容の会話を想定する人もいるでしょう。

それに加えて、カメラのオンオフ、ミュートかどうかで、会話の参加に対してある程度の意思表示が出来てしまうこともあります。

「オフライン」では、会議中にこっそりうたた寝をするなど、会話の場への参加具合はあまり(パっと見では)見えませんでした。

しかし、Zoomなどのツールではカメラをオフにすることで自分の「姿情報」を相手に与えないことが可能ですし、ミュートにしてしまえば音声情報すら与えないことが可能になります。

この二つだけでも、その人が会話の場にどれだけの情報をもたらそうとしているのか、どの程度参加をしようとしているのかが可視化されてしまいます。

 

 

 

3. これからの状況の想定

今更ですが、この記事では「オンライン」のほうがいい、「オフライン」のほうがいい、といった議論をするつもりはございません。

寧ろ、会話の目的、用途に応じて使い分けることが有効なのではないかと思いますので、これからの状況の想定(希望的観測)を考えていきたいと思います。

 

「オンライン」についてですが、会議とか話し合いなどの、発言者をきちんと区画ごとに決めることの出来る会話の場であれば、先の章で説明したオンラインの利便性が大きく輝くと想定します。

会話の場をきちんと作らないといけない面倒くささ、「人間感覚」の減退は、会議などのきちんとした場での話し合いの状況においてはデメリットになりません。

マシンガントークのようなテンポの早い会議ではなく、質疑応答や発言者の持ち時間がきちんと決まった型の会議であれば、ラグもあまり問題にならないでしょう。

 

しかしながら、雑談や友人同士の会話など、テンポの早い会話、人間感覚に重きが置かれる会話の場であれば、デメリットは大きいと思います。

少なくとも、友達と遊ぶことが出来ないと嘆く中高生の多さを見ると、「オンライン」でその不満を充足を期待するのは無理なような風に感じます。

 

「オフライン」についてですが、 対面授業や対面接客が望まれる声を見ると、私が「人間感覚」として名付けた生身の人間が目の前にいるという感覚は、確実に「必要」とされ、求められているのかなぁといった風に感じます。

 

これらを踏まえて考えると、なんでもかんでも「オンライン」とは成りえないでしょうが、コロナの終息具合で対面(「オフライン」)は増えるものの、「オンライン」を用いる層は確実に残ると思います。

どのくらいの割合になるかなんて分かりませんが、コロナ前に比べて増えることは恐らくほぼ確実でしょう。

 

 

4. まとめ

コロナの影響で対面を避けるように推奨されているこの世の中、「オンライン」がいろいろな場面で進められています。

「オンライン」は、コロナのせいで仕方なくとっている措置、といった側面があるのも否めませんが、私自身「オンライン」にも非常に可能性があると感じる人です(「オフライン」と比較してみることで、その弱点や強みを探ることが出来ないかなぁと思ったのがこの記事を書くきっかけだったりしますが…)。

「オンライン」の是非などを考える前の足掛かりとして、とりあえず、どういった違いがあるのかについて比較検討してきました。

 

この記事の落ち度を認める部分として、同じ物理空間において、人と人とが向き合って(対面して)会話をしているという感覚を、「人間感覚」という非常に曖昧な観念を導入して説明した風にしていることがあります。
「オンライン」と「オフライン」を分ける重要な感覚の一つですが、分かりやすい説明の言葉が思いつかなかったので、少々いい加減な説明であることは自覚しています。

この感覚の説明、誰か論文とか紹介してくれませんか…(+o+)

 

恐らく数年かそこらか経過した後に、オンラインにおいてのコミュニケーションの形がどのように変わっていたのか、調査はされると思いますが、まだまだこれからどうなるか分からない所でございます。

著者もオンライン化の最中にいますので、この変化を観察していきたいなぁとか思っています。どうなるのかなー

 

 

5. 参考文献

三浦麻子. (2012). 東日本大震災とオンラインコミュニケーションの社会心理学: そのときツイッターでは何が起こったか. 電子情報通信学会誌, 95(3), 219-223.

人間関係について考える ~自己編~

皆様こんにちは。葉月でございます。
 


人間関係について考えるシリーズ第4弾。今回は「自己」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

最初の記事で紹介させて頂いた、「自己開示」という考え方についてですが、ふと疑問に感じたことがあった人もいたのではなかったでしょうか。

「そもそも、開示する『自己』ってなんだろう」と。

自己開示の記事では、他者との関係性にフォーカスを当てましたが、今回はその内面、「自己」にフォーカスに当てていきたいと思います。

 

今回の「自己」というテーマに迫っていく前に、一つ概念を導入したいと思います。それは「多元的自己」という考え方です。

言葉の意味自体を問い始めると、哲学のほうに向かってしまうので、ざっくりと言うなら「複数存在する(ように見える)人間性」という意味です(分かりにくいですね汗)

 

辻氏(2004)の言葉を借りるなら、

「本当の自分」を単一的ではなく、多元的なものでありうると考えなおした。

とあります。

 

何か一つのコアのようなイメージを持たれていた「自己」ではなく、それが何個かあって、その統合体として「自己」が存在しているという解釈がなされたのです。

イメージ図を辻氏の論文からちょっと拝借して見ていきたいと思います(私が用いている用語と少し異なりますが、指しているものは同じです)。

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(ソース元: http://d-tsuji.com/paper/p15/


上の図のように、単一の自己(自己開示の記事で見た、心理的距離にも似ていますね)という捉え方をするのが「一元的自己」であり、何個か核があるように見え、それが複数集まったものを自己とするのが、「多元的自己」になります。

 


今回は、この「多元的 / 一元的自己」という視点から人間関係について考えていきます。

この概念を提唱されて、ピンとくる人とこない人に差が出てくると思いますが、いつしか述べた「八方美人」を思い出してみましょう。

相手に合わせて振る舞い方が変わる人のことを指しますが、それも多元的自己の一種と考えて問題ありません。

この多元的自己の多元性の切り替わりは、社会的にある振る舞いを求められるという条件において変わることが指摘されており、八方美人は、想起しやすい一例だと思います。

  

 

1. 多元的自己の考察

最初でざっくりと説明をしましたが、一元的自己と比較して、より詳しく見ていきたいと思います。

 

まずは、多元的自己の対立考えとなる、「一元的自己」の考え方を詳しく見ていきましょう。

主軸となる考え方は、二項対立です。

一番最初に生まれるものとして、他者からどう見られているのか、という「外観的自己」と、自分が自分をどう捉えるのか、という「内観的自己」の二つの軸が出来ます。

また、よく言われるテーゼとしては、「本当の自分」と「仮の自分」という二項対立などがあると思います。

この二つの軸は、社会に生きる人間にとって大きなものであり、ジョハリの窓なんかのアイデアにも近しいものがあります。

 

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 (ジョハリの窓。ソースはwikiの画像)

 

他者と自分が、認識しているか、認識していていないかという2*2のマトリックスで自己を把握しようとしたのがジョハリの窓の考え方です。

読者の皆様も一度表にしてみると、自分の性格とか特徴を分類する手掛かりになるのではないかと。

 

この一元的自己の考え方の中で、主に問題にされたことは、「『自己』は一つの固定した特徴、形質なのか? それとも人との関係で変わるペルソナ(仮面)なのか?」です。

奥深くの内面にまで触れていれば、一つの固定的な特徴や形質という見方が出来ますし、「表面的な」付き合いに留まっていれば、人との関係で変わるペルソナだと解釈するということです。

こういった考え方の中で、自分の奥深くにある、核となる自分というアイデアが大事なものになり、それを捜索するというのが人生目標の一つになる、といったこともあったでしょう。

 

そして、この一元的自己が「自己」の考え方の中心となってきましたが、ここ最近になって、それでは分類出来ない自己の在り方が認められるようになっていきました

それが多元的自己の存在です。

社会が発達するにつれて、各人のこなす社会的役割の数が増えていったため、その状況に応じた振る舞いが求められるようになっていったこと。

SNSの進展により、自分の望む自己を見せることが出来る環境が生まれていったこと。

上記のような理由が考えられましたが、とにかく、「表層と深層」という二項対立で観測出来ない自己が生まれてきました。

 

しかしながら、多元的自己という考え方が生まれたからといって、一元的自己という考え方がまったく廃れたわけではありません。

一元的自己の人も多元的自己の人も表れてきた、と言うのがより現状を示していると思います。

一元的自己と捉える人は、何か一つ、自分の中でとても重要に感じる何かがあって、多元的自己と捉える人は、それが複数あるように思う傾向がある、ということになります。

 
 

2. 自分なりの「自己」考察

一元的自己と多元的自己を比較検討してきましたが、そこから派生して、自分なりの仮説を立てていこうと思います。

この二つの自己の考え方は、ある一つの軸で考えることが可能だと思います。

それは、「要素の重みづけ」という観点においてです。

 

まず、一元的自己について。辻氏の図を紹介しましたが、ダーツの的のような自己のイメージ図があって、中心にいけば行く程、自己にとって大事だと思う要素になっていくという考えです。

そして、多元的自己については、ある程度(複数個)の自己の要素が並列して並んでおり、それらの複合体が自己であるという考えです。

ここで考えていきたいのが、「果たして一元的自己は本当に一つの独立した要素なのか?」という疑問です。

 

私の例を考えてみますと、私がとても大事にしている要素として、「人間関係」を挙げることが出来ると思っています。

しかし、体験記をブログに残したい、また行きたいと思っているくらい、「留学」も自分の中で大きな要素です。

さらに自分の性格を分析してみると、人間が好きという要素が挙げられると思います。

加えて、好奇心が強いというのも自分の中で大きな要素だと思っています。

これらの性格的要素、思考的要素は互いに結びついていますし(留学が人間関係への興味の大きな後押しとなった話はいつしかの記事に書いたと思います)、これらの要素はすべて、自分の中で重要度が最も高いものとなっています。

 

 

これから何か因果関係が導ける訳ではありませんが、私の自己の分類はどれに当たるのでしょうか。

人間関係という大きな主軸を想定して、一元的自己と定義することも可能でしょうし、要素ごとに分けて多元的自己と定義することも出来るでしょう。

私自身としては、一元的自己に近いものがあると思っていますが、多元的自己の要素が全くないわけではありません。

 

そこでこう考えてみましょう。

一元的自己と、多元的自己が0から100のようなスケールを持っている、白黒分かれているのではなく、グラデーションのようになっていると。

 

その人が持つ要素について、要素の重要さに応じて階層が作られているという考え方は、一元的自己の考え方です。

多元的自己を理解する際、重要な要素が並列して並んでいる状況について、一元的自己の場合とは違い、要素の重要度の重みづけをしていないと考えます。

つまり、一元的自己では要素の重みづけが細かく成されており、多元的自己では、要素の重みづけがある程度同じくらいの重要度で並んでいると考えるということです。

 

また、私の自己分析の際に「一元的自己は、一つの独立した要素なのか?」という疑問を呈しました。

一元的自己ではあるが、最も大事な要素(辻氏の図の一番真ん中の部分)が複数存在する場合を考えてみると、その大事な要素ごとに存在しているというのが多元的自己と解釈するのも可能かもしれません。

 

相手に応じて対応を細かく変えるような傾向を持つ人は、要素ごとに分裂した多元的自己、という自己理解がしっくりくることもあるでしょう。

そしてまた、八方美人みたいな多元的自己の代表のようなタイプであっても、「人から好かれたい」という、一元軸で理解を試みることも可能かと思います。

 

話が逸れてきたのでまとめます。

ここで私が述べたいことは、多元的自己、一元的自己とアイデアを紹介してきましたが、これらは二律背反な概念ではなく、グラデーションのようなものであるという考え方も出来るのではないかということです。

 

「自己」における大事な要素、些末な要素等をまとめあげる方法において、その重みづけをどう評価するかという観点から、これら二つの考え方は似た者を共有している。

また、この共通点が理由で、とある「自己」を一元的にも、多元的にも解釈出来る、という事態が存在しうるということです。

 

 

3. 人間関係における影響

自己の性質、それに付随する考えについていろいろ見ていきました。

この章では、人間関係の中でどのように影響するのかについて考えていきたいと思います。

 

まずは、会話の相手が「どのように人を捉えるのか」という問題があります。

多元的自己を持つ人は、少なからず「他者の目」を気にした自己を見せる、という風に想定出来ますし、一元的自己を確立している人は、場面に依らない「その人らしさ」を発揮しようとするでしょう。

自分と相手の会話、という場でしか見せない自己が存在するかもしれませんし、それが相手によって「素」であるという場合も考えられます。

これを確定する技のようなものは思いつきませんが、多元的か一元的かという軸で、対人関係を広く見ることが出来ることで、人間理解がはかどるかも…?

 

 
そして、相手がどう捉えるのかという問題と対になる「自分がどう捉えているのか」という問題も存在します。

自己理解が完璧だ、と自信を持って言える人はそう多くはないでしょうし、多元的自己ならば、相手によっても変化するので「自己をきちんと確定する感覚」を得るのは難しいです。

根底には共通の考え方がある、グラデーションのようなものだと説明しましたが、便宜的分け方として、自己分析をするのもいいかもしれません。

 

さらに「ペルソナ」への理解を深めると思います。

最初のほうで少しだけ触れた、仮面、外的人格と訳されるこの言葉ですが、一元的自己における文脈で理解されてきました。

多元的自己の考えを持った上で考察すると、ペルソナとして認識されてきたものが、分割された大事な要素AかBかという違いでしかないケースが存在することが分かります。

 

所謂「キャラ化」などの現象について述べられた本なんかもいくつかありますが、キャラという概念も、一つの固定したpersonalityと、変わりうるcharacterの二項対立的思考です。

こういった本で紹介されることが多いのは、キャラ化による(本当の)アイデンティティの消失を憂うことであり、一元的自己の思考に基づいています。

一元的自己の考え方を批判する訳ではないですが、多元的自己の視点からも見るならば、「キャラ」も大事な自我構成要素の一つになる、多元的自己の性質足りうるのではないでしょうか。

 

 

4. まとめのようなもの

今回は自己について見ていきました。

実生活に直に活用できるような考察ではないですが、「自己」は人間理解において大事な要素であるように感じます。

 

アイデンティティ」や「自分探し」みたいな単語が大きく意味を持つようになって、「自己」の把握を求められる風潮があるように感じるこの社会。

これに関連する論文は沢山あるように思えますが、一般に流布した、かみ砕かれた理解はまだ先かもしれません。

私自身の理解もまだまだ浅いように思いますので、気が向けば追記をするかも…。

次回で一応最後の話題となります。半分くらい哲学じみた話になる恐れもありますが、とりあえず書いていこうとか思ってます。

 

 

5. 参考文献

木谷智子, & 岡本祐子. (2018). 自己の多面性とアイデンティティの関連. 青年心理学研究, 29(2), 91-105.

辻大介. (2004). 若者の親子・友人関係とアイデンティティ. 関西大学社会学部紀要』, 35(2), 147-159. 

人間関係について考える ~雑談編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

人間関係について考えるシリーズ第3弾。今回は「雑談」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

 

今回の話題、最初は「発話」にしようかと思っていたのですが、聞くと話すが融合した「雑談」が、わりと自分なりの考えをもっている部類の話題に入ると思ったので、この話題にしてみました。

この話題は結構馴染みが深い人も多いと思っていますが、どうでしょうか…。

 

「雑談」という言葉について。

何かくだらない話というマイナスの意味合いも少なからず持っていますが、今回私が注目するのは、雑談の人間関係に及ぼすプラスの側面についてです。

こういってしまっては何ですが、雑談がない人間関係なんて枯れてます。ビジネスライクの付き合いだろうと雑談は大事な要素です(話題はきちんと選ぶ必要がありますが…)。

後に触れますが、ちょっとした自己開示に繋がりますし、緊張感を和らげる効果が見込めますので。

 

 

前回の記事で「傾聴」について触れましたが、今回の内容は「傾聴」に加えて、「自己表現」(自分を他人に示す、表現するということ)の要素も加わっています。

プレゼンテーションやスピーチのような話し方とは少し違う、早い会話のキャッチボール。

本文に入る前から何ですが、雑談はとっても難しいことだと思います。

ですが、身に着けてしまえばどんな場面でも生きる力だと思いますので、見ていきましょう。

 

 

1. 雑談って?

雑談という言葉ですが、先ほども述べたように、「くだらない話」という意味合いも保有してます。

なぜかと考えると、雑談という会話の性質自体、会話の目的、趣旨からある程度外れることを想定しているからだと思います。

そもそも目的を定めていない会話を雑談と称することもあり、わりと「何でもあり」といった印象も抱かせがちです。

話題として選ばれることが多いのが、話し手、聞き手にとって身近な話(近況など)であり、「議論」とは離れた話題チョイスが望ましいとされます。

身近な話を共有していくことで、親密度が増す、初めて会った人と仲良くなる(アイスブレイクみたいな)効果が期待できるのです。

 

 

「傾聴」と似ていますが、雑談にも大原則があります。

それは「『相手の話』に興味を持つこと」「『聴く』こと」です。

 

一つ目の「『相手の話』に興味を持つこと」ですが、言葉として書いてしまえば簡単なようだけれども、行うのは意外に厄介です。

興味がない時って、人はしぐさは目線に表れてしまうことも多く、「興味があるように振る舞う」のは難しい。

なので、私がよく行っているのは、興味がありそうな話の方向に少し誘導してあげることです。

話を聞く時に相槌などを挟むことことは、ほとんどの人が行うことだと思いますが、私が面白そうに感じた話題では、少し相槌の仕方を変えています。

「うん」「そうなんだ」「へぇー」などなど、相槌にも様々な種類があり(それだけでも一冊の本が出来るくらい)、相手の会話の流れを促進することが目的ですが、ある話題についてより話してくれるように促す相槌も多数存在します。

そういった会話の促し方をすれば、自分の聞きたい(興味をもてる)話を相手にしてもらうこともある程度可能になると思います。

 

とは言っても、どんな切り口から聞いても、本当に興味を持てない会話をしている場合もありますので、そういう時は相手の話から連想する話題を振っていくというのがいいと思います。

聞き役が疲れたのならば話し手に回る、というのも雑談のスピーディーさが成せることだと思いますので。

会話が繋がっているように見えれば(実際あまり繋げていなくても)、雑談の流れは途切れたように思われないですし、話し手でありすぎないことも気にかければ、相手を不快にさせることもないでしょう。

 

二番目の「『聴く』こと」ですが、前回の「傾聴」に似ている部分も多いです。

自分を主体に置くのではなく、相手が思うこととして、そのまま聞いてあげること。

傾聴において大事なことでしたね。

しかし、雑談においては、自分が話し手になって話さないといけない場面も多々あります。


相手の話を聞き、それに対する自分の考えを示すこと。

傾聴について述べた時に、二つ目のポイントとして挙げたことですが、雑談においては、話せることも大事なのです。

言い換えれば、自分の考えを示す(相手の話にレスポンスする)ことが、傾聴に比べてより重要なのです。


雑談は相手を楽しませるお笑いのような役割も備えています。

でも、大勢の観客を笑わせる必要はなく、目の前で会話している人(複数でも)を笑わせることが出来ればいいのです。

だからこそ、相手を観察して、どんな話が好きなのか、どういう話題に食いつくのかと見ていくことが非常に大事になります。

そして、それは聞いている時だけに限りません。話している時も(というより話している時こそ)、相手の反応を見て、話題や語り口を変えていくことが出来れば一流だと思います。

この点においては、傾聴と違うものですが、雑談においては大事な原則となります。

 

この二つの原則は、下に挙げた参考文献の中で紹介されていたアイデアを吟味して、私が一番大事だなと感じたものをチョイスしたものになります。

他にも笑顔が大事、名前を覚える、褒める(いい褒め方であることが大事ではありますが)、等々いろいろありますので、見てみると面白いかもしれません。


 

2. 雑談のネタとか

雑談の原則について説明してきました。

雑談なんて言われても、話すネタが思いつかないよ。という人のための、よく使えるネタ紹介をしていこうと思います。

しかし、これはあくまで一般的に通用するネタでしかないので、相手をよく観察して(相手を「聴いて」)、ネタを絞っていくことが肝要です。

 

 

まずは避けたほうが良いネタについてまず見ていこうと思います。

「政治、宗教」のネタは避けたほうがいい、というのは聞いたことがある人も多いかもしれません。

私も同意見です。少なくとも雑談においては。

この二つのトピックは、どうしても議論が絡みやすくなります。

冒頭でも述べましたが、会話のテンポが早めであり、身近な話題から自己開示、親密さへと繋げていくのが目的の雑談において、「議論」的なトピックは避けたほうがいいのです。

日本で宗教の話をすることも中々ないとは思いますが、強い思想を持つ人も少なからず存在するので、雑談という場においてそこに踏み込むのは避けたほうが良いでしょう。


お次は「家族、恋愛」です。

理由としては、相手の心の内部に踏み込みすぎる話題だからです。

少なくとも、家族の構成やその関連の話題について話を振られない限り、話をすることは避けたほうが良いと思います。

私の私見でしかありませんが、家族の話題を振った所で、健全な家族(と呼称するのが良いのでしょうか…)に過ごしている人は特に話すこともなく(特に言うべきこともない)、不健全な家族に過ごしている人は、家族の話が振られると明らかに嫌そうな反応を見せる印象があります。

話題として膨らむこともあまり想定しにくいので、そういった意味でも避けたほうがよい話題かと。

 

そして、恋愛について。本によっては恋愛も雑談のネタとして使えると述べているものもありますが、私は避けたほうがいいと思います。

きわめてパーソナルなことであり、互いの性別によっては、経験、体験を話したくないと感じる場合もあるでしょう。

合コンなどのそれがある程度容認される場であれば、また違うのかもしれませんが、一般的な場における雑談の話題としては危険だと思います。

 

 

それでは、雑談に使えそうなネタについてみていきましょう。

まずは無難に「天気、気候」ですね。

雑談に困ったら、まずはこれについてコメントしてみよう、みたいなことを書いている本も多いんじゃないでしょうか。

しかしながら、あまりに「無難な話題」として有名になりすぎたせいで、この話題を頻繁に持ってきてしまうと、「雑談出来ないのかな?」という印象を与えてしまう恐れもありますので、多用には注意しましょう。

連想が上手く繋がれば、この雑談で始めても低印象を与えませんが(暑い、寒いで出身の話題に持っていく、気候から行ったことのある場所を話してみる…)、中々難しめ?


次は「趣味、出身地、食べ物」です。

食べ物、などは意外に盲点かもしれませんが、意外に好きな食べ物、郷土料理にまで話が及べばけっこう楽しく話をすることも可能です。

雑談の一つの目標として、相手との共通点を探すというものがありますが、趣味、出身地の一致などは、相手に近づく大きな一歩です。

 

旅行が趣味の人などは、相手の出身地に対して、行ったことのある場所である可能性がありますが、それで話をしてみても、ウケはとてもいいです。

散歩、読書、旅行、映画、音楽辺りは趣味として紹介してくる人も多いので、試してみるのもいいかもしれません。

食べ物、出身地の場合は起こりにくいですが、趣味の話になると、相手がどれほど詳しいのか、自分とのやりこみ具合の差が気になる人も出てくると思います。

後述しますが、これはあまり問題ではありません。

寧ろ、自分があまり興味がないのに、趣味ですと言ってしまうことのほうが不味いです(ハマッている人に出会った場合、相手の話についていけなくなる&興味がなくなるので)。

自分がどのくらいのやりこみ具合でやっているのか、趣味をやっていてどういう風に思うのか、ちょっとした発見、程度のものはエピソードとして話せるくらいにしておくといいでしょう。

 

 

ここからは雑談内容として抽象的ですが、仲を近づけるのに大いに役立つ雑談の話題についてです。

一つ目は「自分と相手の共通の話題」です。

共通、という言葉が何を指しているのかについてですが、自分と相手の属性の共通、という意味です。

例えば、大学生を例に挙げてみましょう。相手も自分も、違う大学に通っていたとして、雑談の話題としては何が選ばれるでしょうか。

恐らくどんな授業をとっているのか、専攻は何なのか、きつかった授業、大学生活、サークル、バイト、二外国語などなど…、いろいろ考えられるでしょうが、雑談の話題として、「大学について」がお互いに話しやすい話題であることは、想像しやすいでしょう。

 

それと同じことが、例えば仕事の話であったり(職種によっては愚痴が一致するかも?)、人付き合いの話であったり(雑談そのものを雑談の話題にしてもいいかもしれません)、相手との共通点を探すことで、話題のタネが尽きなくなります。

これは見つけるのはあまり簡単ではありません。

 

一つポイントとしては、自己紹介によく耳を傾けておきましょう。

自己紹介では、よくどこで働いているのか、どんなことをしているのか、特技、好きなものなどなど、雑談のネタのヒントがたくさん転がっています。

自分と結びつけることが出来る話題、自分の知っている知識と噛み合う情報を頭に留めておくのもいいでしょう。

 

二つ目は、「相手が知っていることで、自分がある程度ついていけるものについて」です。

最たる例が先ほども挙げた趣味の話についてだと思います。

お互いに関心を持って話が出来る話題でないと話は続きにくいので、「相手が現在頑張っていることで、自分が興味を持っていること」でもいいでしょう。

基本的には、相手が深く知っていることを喋ってもらうほうが簡単です。傾聴の記事でも述べましたが、相手の話をしっかりと聞くことが出来ます。

相手の話をしっかりと聞く体勢が出来れば、「自分の話をきちんと聞いてくれるんだ」と相手に思わせることが出来、信頼感が生まれやすくなります。

この話題に自分が興味を持っていれば、雑談の原則の一つである、相手に関心を寄せることが容易になりますので、さらに効果アリ?

 

そして、先ほど趣味の深さに差があってもあまり問題ではないと述べたのはここに理由があります。

相手が詳しければ、自分が気になるから教えてという形をとれる。自分が詳しければ、相手に対して少し耳よりな話をする体で会話を進めることが出来る。

趣味の深さに差が出ていても、聞き手か話し手に回るかの違いでしかないのです。

深さの違いによって聞くと話すをスイッチしていけば、もっと言えば、何か一つの細かな話題についても知識の多寡によって変化すれば、雑談は盛り上がりやすくなるのではないでしょうか。

 

ここで挙げた二つの(抽象的)話題について、共通項がありまして、それは「相手との共通点を話題にする」ことです。

聞き手、話し手にとって、身近な話題を選ぶ、と雑談について説明する際に言葉を用いました。

これをより深めると、どちらもその話題についてそれなりに知っている(共感したり、話し手になることが出来る)レベルのものであればある程、雑談はちゃんと盛り上がってくれます。

相手の自己紹介をきちんと聞くほうがいいと思うのも、相手の属性をきちんと分析し、自分と「共感出来る点」を探す上で有益だからです。

もちろん、最初に思った属性からあまり話題を持っていけないことも多く存在するでしょう。

そういう時は、自分の最近していることを軽く自己開示して見せることもアリだと思います。

 

 

3. 大事なポイントとコツ

雑談という行為において、何が大事であるのか、その話題以外の側面について考えていきます。

まずは、楽しそうに話しましょう。聞きましょう。

これが大原則ですし、これが出来るだけで全然違います。

細かい話は後で述べていきますが、とりあえずは雑談を楽しみましょう。

楽しんでいる姿を見せれば、相手も楽しく感じてくれやすいです。


次に大事なのは、ペーシングです。

これは相手と同じリズムで話を聞いてあげることです。

相手がゆっくり話しているのに、自分の相槌や促しがテンポの速いものであれば、相手は調子が狂ったように感じてしまうでしょう。

その逆もまた然りですが、ゆっくりと話すのであればゆっくりと対応し、早い会話であれば会話をどんどん促すように続けていきましょう。


そして、何回か述べましたが、雑談は議論ではない、というものポイントの一つです。

議論になると、相手に返答を考えさせてしまい、自己開示という側面よりは意見交換会になってしまい、雑談で達成しようとしていることとは別の方向に向かってしまいます(それでもいいってことも多いかもですが…)。

ある程度、思考停止で返答をさせることが出来るくらいが雑談の温度具合として、ちょうど良いように感じます。

 

ここからは応用編になりますが、雑談の基礎が出来るようになったら、次は雑談の内容を洗練させるようにしましょう。

雑談で話す内容に、相手にとってちょっとした学び(or驚き)になる知識、体験談を織り込めるようになると良いです。

相手や自分にとって身近な話、共通の話題について話が出来るようになっていれば文句無しですが、さらにプラスαの話になります。

雑談をしていて、印象をも良くすることが出来る技ですので、出来るのならばトライしてみるのもいいと思います。

 

 

4. まとめのようなもの

今回は雑談についてでした。

初めて会った人との雑談は、アイスブレイクのような役割を担い、仲を深めていくのに有効な手段の一つです。

前回の傾聴の話と被る部分もありますが、相手の話をちゃんと聞いてあげよう、という姿勢がまず大事だというのは言わずもがなです。

雑談で困ることと言えば、話のネタに困る、という場合が多いかと思いますが、相手のこと、相手の話をよく観察していくと、意外に雑談のヒントはいっぱいあるように感じます。

雑談も突き詰めればエンターテインメントな部分がありますので、お笑いなんかを参考にしてみるのもアリかも?

 

次回の記事のネタは迷ってます。番外編を作りたい気持ちもあり…。

まだこのシリーズは続けるつもりですので、見て頂ければ嬉しいです~。

5. 参考文献

Dale Carnegie (著).  山口博 (訳). (1999). 「人を動かす」. 創元社.

Jesse S Nirenberg (著). 小川敏子 (訳).  (2005). 「話し方の心理学 -必ず相手を聞く気にさせるテクニック-」. 日経BP

 

人間関係について考える ~傾聴編~

皆様こんにちは。葉月でございます。

「人間関係について考える ~傾聴編~」です。

このシリーズ記事がどういうものなのかは過去記事をご参照ください↓

 

leafkeylosttime.hatenablog.com

 

人間関係について考えるシリーズ第2弾。今回は「傾聴」という観点から人間関係を考察していきたいと思います。

 

さて、それではまず「傾聴」という言葉の意味について。

私の記事の中では「相手の話をきちんと聞いてあげること、そして理解してあげること」といった意味で用います。

今回の記事では人間関係の深さに関わらず大事な要素なので、4タイプの人間関係分類に固執するつもりはありません。

しかしながら、関係が深いものになればなるほど、この「傾聴」という姿勢が求められるようになっているように感じますので、深い人間関係を築きたいと思っている人は参考になるかも…?

前回考察した「自己開示」という考え方、その自己開示の受け止め方の一つとしても「傾聴」という姿勢があると思いますので。

 

 

最近ではプレゼンテーション力や発言力などに注目されることが多く、私の記事の中でも取り上げてみたいと思う内容ではありますが、それと同じくらいに大事だと思うのがこの「傾聴」です。

自分の話をするだけでなく、相手の話を聞くということ。

相手の意見や話を聞くことなく自分の発言力だけを鍛えても、偏りがあるように思えてしまいますので、「聞くこと」も是非注目して欲しいなぁと思っています。

 

1. 傾聴って?

傾聴という言葉の意味を先ほど取り上げましたが、この言葉の指し示す行為について説明していきます。

(私の思う)基本原則は二つだけです。

それは「『相手の話』として聞くこと」「その上で相手の気持ちに返答すること」です。

 

一つ目の「『相手の話』として聞くこと」ですが、自分を主格として聞くのではないという意味です。

英語なら "I listen to your talk" とか "I hear what you say" みたいな 、"I"(=私)というものが先行して話を聞く姿勢ではいけないということになります。

「あなたはこう言いたい」「あなたはこう思っている」といった風に少し分析的でもいいと思いますので、自分の考えたこと、感じたことではなく、「相手がどのように考えたか」ということを一番に考えるようにすることが大事だと思います。

 

自分が喋りたいことがあるのに、誰かが口を挟んでその人の話に持っていかれたことを苦々しく思った経験は無いでしょうか?

自分の意見、考えを一番に考えてしまうと話したがりな人は話を止めて自分の話をしたくなってしまうものです。でも、それだと話したかった人が不完全燃焼になってしまう。

まずは「相手」を主格において話を聞くことが大事です。

 

 

二番目の「(相手の話を聞いた上で)その気持ちに返答する」ですが、実はしばらく前まで、自分は最初のポイントとしか基本原則として捉えていませんでした。

しかし、これも大事だと友人との会話の中で気づいたことがありましたので、ちょっとだけエピソードを紹介したいと思います。

友人と将来について話をしていた際に、私は先に述べた「相手の話を相手の話として聞く」という姿勢で友人の話を、友人の考えと友人の感性のものとして理解しようとしていました。

しばらく話した後に、友人は「なんかいつもと同じ結論な気がする」と。

私がどういうことかと尋ねると、「何か結論めいたものが出たような気がするけど、何も解決していないような感じ」と言っていた。

友人は自分(聞き手)の意見や考えを求めていたのだろう。なるべく自分は、自分の考えや意見を表出しないようにしながら、でもやんわりと自分の意見が伝わるように聞く姿勢でいたのだが、友人は自分の意見を聞いた上での解決策を求めていたのでした。

 

このエピソードを通じて、私は「自分の意見を忌憚なく述べる」ということが重要だと主張したいわけではないのは、皆さまのご想像の通りです。

一見相反するように見える「相手の話を相手の話として聞く」ということと、「自分の意見を述べる」ことですが、この二つは会話のプロセスでしかありません。

相手の話を聞き、それに対する自分の考えを示すこと。

「君はこういう考えなんだね。私はこういう考えだよ」 

こう示すことは、互いの意見を確認し、互いの考えの視点を理解することに他なりません。

なので、最初に挙げた二つの基本原則は、どちらか一方だけでは不十分な「傾聴」になってしまうことを留意して欲しいと思います。

 

 

さて、私が挙げた二つの原則を踏まえて、井原氏 (2006)が著書の中で説明している内容について見ていきましょう。

1. 相手の言おうとしていることの全体の意味を聴くこと

2. 相手の気持ちに応えること

3. 言葉以外の表現、例えば、…声の調子、表情の変化、息づかい、姿勢、手や目の動きで気持ちの表現を知ること

これだけ見るとやることがとても多いように感じますが、1.3の内容は自分の中では「『相手の話』として聞くこと」において、注意すべき点(or注意出来る点)を挙げているに過ぎないと思います。

2の内容については、私が欠けていたとする二つ目の原則に一致するように感じます。

 

少し抽象的な話に終始してしまいましたが、具体的なポイントやコツにつきましては、3. 大事なポイントとコツの部分で説明していきたいと思います。

 

2. どうして傾聴って大事なの?

傾聴という行為について、その理念について説明してきました。

この章では、そもそもなぜ傾聴が大事だと思っているのか(なぜこのシリーズの記事で取り上げようと思ったのか)について説明していきたいと思います。

 

傾聴、つまり相手の話をちゃんと聞いてあげることは、最近の人間関係の中で零れ落ちている視点のように思えたからです。

私が感じているのは、「自己主張」に注目が置かれすぎているように思う、ということです。

 

想像でしかありませんが、SNSの発達において、自分の発信メッセージには文字を使う(気を配る)けど、他の人のメッセージにはいいねやスタンプで終わらしてしまう(相手の内容をざっくりと捉えて返信してしまう)という状況が生まれ、あまり他者のメッセージを気に掛けなくなったのかもしれません。

そして、「会話のようなスピードで(声音声ではなく)文字を媒介にする」事態が出来てしまったので、その情報量がそぎ落とされ、そもそも傾聴を心掛けなくても問題ないような情報量のメッセージに触れる機会が増えた、と考えることも出来ると思います。

教育においては、プレゼン、双方向授業などの発言を強く重視する授業スタイルがアイディアルであり、「主張」に力が注がれているように思えます。

もちろん反証なんていくらでもあるでしょうが、相対的に「聴く」ということが置いてけぼりに感じることは確かです。


さらに、ここからは持論になってしまいますが、人は話を聞いて欲しいと思う生き物だと思っています(どのくらいかは人によって異なると思いますが…)。

それぞれが、それぞれに自分の話をたくさん聞いて欲しいと思っていれば不均衡ですし、必ずしも会話をする人達の話をしたい欲をすべて満たせるわけではないと思います。

だからこそ、傾聴も自己主張も出来るようになれば(「調節」出来るようになれば)、相手を最大限に満足させることが出来る、と思っています。

自己主張を頑張ってしないといけない会話の場面は、自己PRの面接くらいしか思い当たらないので、傾聴を身に着けたほうが役に立つ場面が多いんじゃないかなぁと。 

 

3. 大事なポイントとコツ

「傾聴」という行為が何であるか、何で大事だと思うのか、という議論を踏まえて、実生活にどのように傾聴を用いることが出来るのか、具体的に考えていきます。

まず大原則でありますが、ちゃんと相手の話を聞いてあげることです。

大原則ですが、意外と実行するのが一番難しいと感じる部分かもしれません。

なぜなら、「会話に応答すること」も傾聴の大事な一側面であり、相手の話の文脈、論理、意見(さらには態度や話し方などの非言語的要素もありますし…)をそのまま受け取るのは骨が折れる作業ですからね。

そして、1で述べたように、相手の話を「自分なら~」という視点で見てしまうと、それは相手の話を「聴く」のではなく、自分の中で解釈してしまっているからです。


そこから派生し、「相手の話を否定しない」というのも大事なポイントだと思います。

ここで気を付けて欲しいのが、相手の「意見」を否定しない、ということではないということです。

相手の意見に反対を述べるのは、考えや視点が違えば当たり前のことであり、寧ろ互いのスタンスをはっきりさせる大事な場面になるはずです。

相手の「話」を否定しない、というものは、相手の話している最中に遮ったり、相手の話を頭ごなしに否定することをしてはいけないという意味です。

基準がふわっとしてはいますが、「ちゃんと話を聞いてくれているんだな」と相手に思ってもらうことが何よりも「傾聴」において必要なことだと思います。


あと、私がよく使っているテクニックのようなものを一つ紹介したいと思います。

それは「オウム返し」です。

相手の話の中で、大事な(と思った)単語、文章の大意をそのまま相手の言葉で返答してあげることです。

一例:「この仕事辞めたいなぁ」→「仕事を辞めたいのね」

聞き手が相手の言葉や文章に、さらなる意見や考えの展開を求める効果があると思います。言ってしまえば、話の内容の深堀にとても役に立ちます。

カウンセラーなどが用いるテクニックみたいですが、相手の話についていってますよ、というアピールにもなるので、個人的には便利な返し方打と思っています。

多用すると「なんで? なんで?」と聞き続ける子供に対して思う苛立ちを相手に抱かせてしまうので、あくまで1テクニックとして覚えておくと、返答に困った際などに用いることが出来るかもしれません。


2でも少し触れましたが、人は誰しも「認めてもらいたい」生き物だと思っています。

上で述べた3つのポイントやテクニックは、相手の話を聴いてあげることから、相手そのものを認めてあげることなのだとも思います。

「あなたの話はちゃんと聴くに値すると思うので、きちんと聴いています」といった姿勢の証明になりますからね。

そうすれば返報性っぽいですが、相手も自分の話をちゃんと聞いてくれるようになるかもしれません。

それが続いていけば、より不快感(or齟齬)の少ない、実りのあるコミュニケーションが可能になると思います。

 

4. まとめのようなもの

今回は、自己主張が求められることが多くなってきた世の中において、「傾聴」という、少し逆行しているような内容でございました。

2. どうして傾聴って大事なの?の項目でも説明しましたが、私がこの内容をチョイスしたのも、ある意味時代と逆行しているから、かもしれませんね。

「話をちゃんと聞きなさい」とかいう言葉は、小学校の先生とかがよく言いそうですけれど、やっぱり大事なんだなぁと感じる場面が多いです。

 

まだいくらか記事のネタが思い浮かんでいますので、頑張って更新していくつもりです。内容のうちの一つは、今回の「傾聴」をより深く発展させたものになる予定です。多分…。

 

それでは、皆様の良い人間関係生活をお祈りします(^^)ノシ

 

5. 参考文献

井原 伸允. (2006). 「聴き上手は、コミュニケーション上手―職場の人間関係、接客・営業、子育て、介護、ボランティア…すべては“聴くこと”で変わる」. ビジネス教育出版社.

杉原 保史. (2015). 「プロカウンセラーの共感の技術」. 創元社